藩随一の大きな港、金崎港
浦紗屋太一は商売柄、米づくりに詳しく、作柄を左右する気象の変化を調べたりするのをはじめとして、何事にも好奇心が強かった。まだ前髪が取れていない頃の話であるが、藩米を大坂に輸送するのを見届けるために西回り航路の北前船に乗って大阪まで行ったこともある。
西回り航路とは大阪を起点として、千石船(弁財船、排水量百屯)で瀬戸内から下関を経由して日本海沿岸を北上し、最後は北海道松前まで行く航路である。
北前船は貨物輸送ばかりでなく、船が寄港する港で物資を購入し、それを売買しながら廻船する仕組みになっていた。
まず、大阪で酒、醤油、食料、衣料を、瀬戸内海で塩、砂糖、蠟を、さらに北陸、東北では米を仕入れ、順繰りにそれを売買しながら蝦夷地(北海道)で米を売る。帰りは魚の肥料、食用の身欠ニシン、カズノコ、昆布などを上方に運んだ。この時代、北前船ばかりでなく日本沿岸にはさまざまな廻船が発達し、海運事業が盛んだったと言える。
浦紗屋太一は藩米を海上輸送する都合上、藩随一の大きな港である金崎港にも蔵を持っていて、金崎港の様子についても詳しかった。金崎港は粗衣川の河口にある藩内で一番活気のある港である。そのわけは、粗衣川を使って、大量の物資を舟で二河城下に運ぶ拠点になっているからだ。
太一は酒は好きだが、弱いのか、ほんのり赤くなった顔をあげて、
「城下では茶の湯が盛んになって、それに伴い洗練された和菓子がつくられるようになってきたのは喜ばしいことではあります。しかしながら、菓子類ばかりじゃありませんが、使われている砂糖の量を考えると、認可されている量より大量に運び込まれているようです」
と、懸念を言った。
二河城下では季節、季節の野菜や新鮮な魚介が手に入る。野菜は二河盆地の北側でつくられているし、魚介は朝どれのものが金崎港から舟で運ばれ、栄町の近くの魚市場に並ぶ。それらの豊富な食材を使っての料理が工夫され、甘めの濃い味付けのために砂糖が使われるなど独自の食文化が定着してきていた。
砂糖は甘みばかりに使われるものではなかったが、想像以上に、城下に大量の砂糖が持ち込まれているという。
「砂糖を扱っているのは廻船問屋の勢戸屋だったな」
隼人は、にこやかにしているがずる賢さがみえる勢戸屋の顔を思い浮かべた。勢戸屋が次席家老の脇坂兵頭に賄賂を贈り、そのかわりに砂糖の専売権を得るなどして、持ちつ持たれつの関係であることは知っている。
勢戸屋は元々は廻船問屋ではなかったのだが、商才にたけていて、城下で昆布や鰹節、砂糖の需要が高いと知ると、北前船を利用して蝦夷から昆布、南からは鰹節、砂糖を運んできて儲けたのだ。
いまでは、名士たちの間で工芸品や骨董が持て囃されていると知ると、長崎で中国船から求めた陶器、書、絵画、玉などを持ち込んだりして、名士たちの仲間入りを果たしている。
「そうです」