藩経済の動向
藩経済は商人に握られていることを無視して、贅沢品や華美なものに制限を加えたので、上り調子だった藩経済が沈滞した。どこまでが贅沢品で華美なものか、制限の限界を決めることができなかったことが大きい。
例を挙げると、すでに城下では茶の湯が盛んで、茶席のしつらえとか茶器とか、茶会のための着物、茶菓子とかが工夫され、藩経済の一翼を担うようになってきていた。ゆとりが生んだ商活動である。それらに制限が加えられたので、人の気持ちが沈滞したのだ。
執政入りして中老になっていた新宮寺隼人は、椎賀清衛門の施政を是としながらも、なにか飽き足らない気がして、秘かに宝達山に押し込められている都野瀬軒祥のもとを訪ねた。
宝達山にはまだ雪が残っている頃だった。
都野瀬は厳しい寒さの冬を過ごしたとは思えないほど元気で、別人と思われるほど穏やかだった。
新宮寺隼人の問いに、都野瀬は何事も情報が重要で、それには来るもの拒まずに接すれば、情報は自然に集まってくると答えた。ただ、そこに好悪を挟むと集まる情報に偏りができ、判断を誤らせることになる。それが自分の失敗だったと言う。
軒祥は商人と癒着し賄賂を横行させた張本人でもあるが、大災害のとき、意気消沈している藩民にお玉が池を造成する仕事を与えた。また、商人から多大な資金を引き出して、粗衣川を運河として転用し、舟通しの堰を建造したなどの功績は大きい。舟通しの堰と云うのは都野瀬軒祥の部下で算学に秀でた金谷宗兵衛が手掛けた堰で、水を出し入れして、舟を川から池に持ち上げることができ、そのおかげで金崎港から直通で城下まで荷が運べるようになったのだ。その他に、菜種の栽培を督励し菜種油を藩の特産品とするまでにしたし、機織り機を貸し出して、織物を藩有数の産業に育て上げたというのもある。
藩経済を上向かせるには、経済を握っている商人たちをうまく使わないといけない。利を求めるだけの商人は早く見つけ出し閉めだす必要があると言った。
「彼らはどこででも商売ができるが、藩民もそなたたちも藩から逃げ出すわけにはいかないからだ」
都野瀬は、商人は利のためにさまざまな要求をしてくるから、利用されるのではなく、利用するくらいになるよう頭を使えとも言った。都野瀬軒祥は話を続ける。