戦国時代の村の成り立ち

新宮寺隼人は、阿佐美屋とは、いまは加持惣右衛門と名乗っている弟を介して浅からぬ縁があり、筆頭家老となったいまでも、ときどき会食したりしている。阿佐美屋はその折その折に藩内の著名な商人を紹介したりする世話好きな爺さんなのだ。

新宮寺隼人は、浦紗屋太一とまじかに接することはなかったが、藩米を一手に引き受け、藩財政の鍵を握る太一のことを良く知っていた。先代の太平もふくよかで当たりの柔らかい人柄だったが、息子の太一も同じで、小太りな体で汗をかきながらも印象とは違い行動力があった。

太一は商才にたけ、機を見るに敏なところがあった。そのおかげで藩が飢餓に陥る危機を脱したことがあったのである。

それは二十三年前のことで、藩に大型の野分け(台風)が襲い、粗衣川が氾濫し、二河平野の収穫前の稲が全滅したことがあった。太一は前髪が取れたばかりで、大坂の米会議所にコメ相場の見習いにいっていたときのことである。

太一は船を見るのが好きで、故郷の二河平野は一面黄色に実った稲穂が重い頭を垂れて、風に揺れている頃だと思いながら、港に千石船を見に行った。港は大きく波立ち、南東から生暖かい風が吹いてきていた。港に着いたばかりらしい船から降りてきた船乗りたちが、声高に話しているのが聞こえた。

「四国沖から急に風が強くなってきて、船をつけれないかと思った」

「早めに帆を降ろしたから良かったのだ」

「とにかくしっかり繋ぐベー」

気象に詳しかった太一は、船頭の話と風の吹き具合から大型の野分けが来ると察知した。それも、四国から来て大阪湾を通り、近畿、北陸方面にぬけると判断した。古老の話から大抵こんな場合は、遠く離れた場所で大量の雨が降る。

それで、北陸方面に大水害が起こると見越して、米会議所で西国の米を安く買いつけた。それを藩に送ったのである。そのおかげで藩民が飢えることはなかった。