戦国時代の村の成り立ち

盆地の北側の丘陵地の奥には幾つかの村があった。それらは戦国時代に戦から逃避した人たちが住みついてできた村である。

その時代、支配者が戦に負けたとなると、勝った者たちが怒涛の如く各村を襲い、略奪は言うに及ばず、婦女子を凌辱し、挙句は捕まえた村人を奴隷として売り飛ばした。

それらの奴隷は、回り回ってポルトガル船に買われ、ルソンや遠くはメキシコまで運ばれたのである。それは天下を統一した秀吉が、キリスト教の宣教師を乗せたポルトガル船が、奴隷売買をしているのを怒り、それらの入国禁止令を出すまで続いた。

戦国時代、戦に負けると人の運命が劇的に変わる。敗者に属する人々はたまらず人目につかないところに逃げ隠れた。二河盆地の北の外れは逃げ込むにはまさにうってつけな場所で、盆地は広大な湿地の広がる茫々たる荒れ地であったが、山際は鬱蒼と木々が茂る森だったのだ。

新たに領主となり、二河城を築城した鷲尾家は城下町をつくるために盆地内の治水に成功した。盆地内の気候は、冬、雪が降るのは海側の平野部と変わらないが、北風が潮見台に遮られて穏やかなので、多くの人が住むようになった。

初期のころは粗衣川が暴れ川で、たびたび洪水を起こしたので、盆地の南の一段高いところに武家屋敷が建てられ、その前面に町地ができた。

粗衣川の堤防が整備されると、町地が北のほうへと広がった。町の外れには宮園と呼ばれる神社がまつられ、その前面に火除け地としての堀とそれを囲む道が造成され、それが粗衣川まで延びていた。堀の反対側には武家屋敷が立ち並んでいた。

それがあるとき、町地から出火し、南の武家地を残して城下がほぼ全焼したことがあった。時の為政者は、それを機会に宮園社を北東寄りに大幅に移し、新たに社の前に幅十五間、長さ十町の宮園掘と呼ぶ堀をつくり、その両側を幅広の火除け地とした。それらはそれぞれ宮園堀北、南と呼び、それらを粗衣川大橋につなげた。

宮園堀北は武家地とし、南は広く町地とした。おかげで宮園堀に面して最も繁華な栄町が誕生した。宮園堀の両岸には桜の木が植えられ、春になると、お玉が池沿いの桜並木にならんで、雪洞ぼんぼりがつるされ、大いなる賑わいをみせた。

お城のある潮見台から盆地に降りるには二つの坂道がある。城に近い坂道は見返り坂と呼び、粗衣川大橋に繋がる。橋を渡って、宮園掘の南側に沿った宮園南通りに行けば、そこが城下で最も繁華な栄町である。北側の宮園北通りには中士以上の武家屋敷が並ぶ。

もう一つの坂道は粗衣川大橋の上流の上粗衣橋に通じ、潮見台から卯辰うたつの方向に下るので卯辰坂という。上粗衣橋をわたって盆地の中央を東西に横断している潮寺通りに降りることができた。

潮寺通りの寺町台付近には、下士の家が立ち並んでいた。下士とはいえ、敷地内は野菜を栽培できるほど広かった。潮寺通りより北は田地や畑地が山際まで続いていた。