加持惣右衛門の推理

加持惣右衛門は、事件が巡回中の番士に起きたということは、海上で何かを見たか、遭遇したかで、それで襲われたと考えた。相手が鉄砲を持っていたとなると、かなり組織的な相手だということになる。ならば、相手は抜け荷に関わるのかもと思い至ったのである。

いままで、抜け荷というと、藩で最大の港である金崎港での荷にまぎらわせて行われていると考えられていた。それが、海の難所で人の立ち入らない坊の入り江で行われているとなると、沖で大きな船から瀬取りして小さな荷舟に荷を移し替えていることになり、藩の海防をかいくぐってのこととなる。それは海防に遺漏があるということで、たかが抜け荷ということではなく、藩にとっては大問題であるのだ。

事態を重く見た加持惣右衛門は、抜け荷の実態を調べるべく、江戸から青山新左衛門を呼び寄せたのである。

筆頭家老である新宮寺隼人が抜け荷のことを聞いたのは、藩の御用呉服屋として城の奥向きの服飾御用も務める阿佐美屋藤平に、二河ふたつかわ城下の仲町の北の外れにある料亭村重に誘われたときのことだった。

二河城下町は二河盆地にある。二河の由来は盆地に粗衣川と浅川の二本の川が流れているからで、水量の豊富な二本の川が、盆地から西に海まで広がる広大な二河平野に流れだしていた。

二河盆地を俯瞰ふかんすると、日本海まで続く平野部と盆地を区切っているのは潮見台という台地で、その突端に二河城が建っている。この土地に移封された鷲尾家の初代藩主が、潮見台の突端の尾山という丸っこい山の上に築城した城である。

潮見台には水源がなく、鷲尾家が二河城を築造したとき、粗衣川上流の粗衣という淵から、盆地の北側の山間に遂道を掘って水をひき、潮見台を経て城内に導いた。尾山と潮見台は途切れているので、土を焼いてつくった土管を地中に埋め繋いで、いまでいうサイホン方式で水をひいた。

潮見台の起点は盆地の北側の山岳にあり、南西に細長く延びている台地は、粗衣川の平野部への出口である守谷口で一旦途切れる。そこから南は再び高台となって湾曲し、浄土真宗雄栄寺の寺域の三頭山に続いている。