粗衣川の本流は潮見台の東側沿いを流れ、守谷口の手前で、二十三年前に起きた大氾濫の際に、治水のために造られたお玉が池と呼ばれる人工の池に一旦注がれる。粗衣川はそこから守谷口を経て流れを北西に変え、平野部を横切り金崎港に達している。
お玉が池を造成するとき、粗衣川を城下と金崎港を結ぶ運河として整備した。だが、問題が一つあった。守谷口で人工池と運河との間で三間以上の段差ができ、船はそこまでしか行き来できなかったのである。
そこで、人工池の出口に堰を二つつくって、閉めてある池側の堰の後ろに舟を入れ、舟の後ろの堰を閉め、堰と堰の間に水を入れる。水面が池と同じになったら、池側の堰を開けて舟を池に入れる。この様に水を出し入れすることで舟を持ち上げることができるようにしたのだ。これを舟通しの堰と呼び、それ以降、大量の荷が城下へ直接運ばれるようになり、藩経済が格段に活性化した。
盆地の東側を区切っているのは寺町台で、名の由来は幾つもの寺があるからである。
寺町台の根元の山際から寺町台に沿って流れている川は浅川と呼ばれ、南の三頭山を迂回して平野部に流れ出している。
鷲尾家がこの土地に封ぜられたときは、浅川は盆地の中央に流れ込み、広大な湿地帯を形成していた。初代藩主が城下町を発展させるためには盆地を乾燥させなければと、新たに寺町台に沿って水路をつくり、盆地の水を集めて三頭山の裏側から平野部に流れ出している川につなげたのだ。おかげで盆地が乾いた。