弘治年間(西暦一五五五~一五五八年)
「上意連々御造意顯、敵御一味候、兩度晴元不可有御許容旨、御自筆之御懐紙御内書被成下、如此之仕合、乍恐御天罰御時刻到來与相見候、此上者何○始末、京都御静謐之儀可被得御意候、長慶以書状被申候、旁可燃様御取成所仰候、將又其表之儀如何候哉、承度存候、恐々謹言、
七月卅日 久秀(花押)
永原越前守殿御宿所」
《『阿波国徴古雑抄所収三好松永文書』より》
『将軍義輝公は自筆の御内書などで、細川晴元を許さないと何度も仰せられる一方で、度々細川晴元に味方するようであるから天罰が下ったのである。京都の静謐は長慶様が担うので、六角様にも同意していただけるようお執り成し願いたい』
儂は近江六角家の重臣永原重興に書状を送り、六角氏を晴元陣営からの切り崩す画策をしていた。
三好家の家臣である一方で、幕府の奉行人としても儂は多忙の中にあった。
石清水八幡宮の社家の家督争いでは、朽木谷の将軍義輝公が下した裁許に対して、一方から異議の申し立てがあったので、長慶様に代わって儂が再度取り調べてみたところ、義輝公の裁許に手落ちがあったことがわかり、長慶様の名で儂は、将軍の裁許を覆した。
武器を使わぬ戦で、将軍相手に勝った儂にとっては、まことに愉快痛快な一件であった。
出雲国の安来清水寺と鰐淵寺の争いでは、幕府奉行人らが鰐淵寺勝訴とした奉書を発給したのに対して、後奈良天皇は安来清水寺勝訴とする女房奉書を発給したため、事態が混乱し、鰐淵寺から長慶様に相談が持ち込まれた。長慶様の御命令を受けた儂は、武家伝奏の広橋国光卿を通じて朝廷に働きかけ、「魚心あれば水心」の例えがあるように、結局のところ禁裏の修築を条件に〈幕府裁許の通り〉とさせていただいた。
将軍なぞいなくとも、幕府の政事は滞りなく行われ、ゆえに世間は長慶様の政事に期待し、後奈良天皇も長慶様を頼るべき存在としてお認めになられていた。
世の文化人とも儂は積極的に交わるように心掛けた。
京の四条室町にある武野紹鴎別邸の大黒庵という草庵で催された〈茶会〉に招かれ、〈茶の湯〉というものを始めて味わった。
武野紹鴎殿といえば、この頃は泉州堺の舳松村に居を構え、三好家が庇護している。若狭の守護武田家の末ともいい、若い頃は連歌師として名を馳せ、出家した昨今は茶人として名声を博していた。紹鴎殿は、茶の湯に精神世界を組み込んだ彼の師である村田珠光翁の精神を受け継いだ御仁で、〈闘茶〉というこれまでの享楽的な趣向とは異なり、静謐な茶室でいただく茶を由としており、そしてその〈静謐な世界観〉に儂も大いに興味を持っていたのである。
堺の豪商今井宗久など顔ぶれは豪華であったが、茶の湯の世界はこの日も静寂で、そのひと時だけは乱世であることを忘れさせてくれる心地の良いものであり、その世界に引き込まれていった。
滝山城に在城している時には、儒学者の清原枝賢を招き、儂をはじめ多くの家臣が講義を受け、教養を深めた。