天文二十一年(西暦一五五二年)
盛夏、長慶様は摂津、河内、和泉、紀伊から二万五千の兵を集め、十河一存に預けて上洛させ、霊山城を一気に攻め落とした。
将軍義輝公は再び近江の朽木谷へ逃亡したが、多くの幕府奉公衆は義輝公を見限って長慶様に投降したため、義輝公に随伴したのは僅か四十人だったそうである。
「あさましき体たらくなり」
「御不運の至りなり」
巷ではその有り様を見て陰口を叩いた。
波多野氏の大敗と将軍の逃亡とを目の当たりにした芥川孫十郎が芥川山城を捨てて自落したため、長慶様は八月末に越水城から芥川山城に移り、そこを居城とした。
此度の丹波攻めの戦功により、摂津国の西の端にある滝山城を儂は任され、四十六歳にして城持ちの身分となった。が、普段は長慶様と相住することを命じられたため、芥川山城に詰めることになった。
滝山城は、新たに儂の家臣となった瓦林秀重を城代として守らせた。