鈴虫の声も終わる頃、儂ら長慶勢は芥川山城を攻めるため、長期戦を考えて、城の東にある帯仕山に付城を築いた。だが、師走になると芥川孫十郎が呆気なく降伏したため、たいした戦いもなく二ヶ月足らずで戦は終わった。

「もともと叛旗を翻すなど思ってもいなかった」

などと孫十郎が釈明したので、

「此度だけは許す」

と、長慶様は仰せられた。

年が明けた天文二十二年、今度は将軍義輝公の奉公衆である上野信孝ら反長慶派の六名が若狭にいる細川晴元と通じ、長慶様を排除しようと動き出した。

二月末、丹波に姿を現した細川晴元を討つため、長慶様は再び、甚介に丹波攻めを命じた。

長慶様不在の京では、晴元の動きに呼応した将軍義輝公が、長慶様との和約を一方的に破棄し、京の東山の麓に霊山城を築き入城した。そして相国寺の戦いの後、姿をくらましていた三好政勝がこれに合流した。

次いで芥川孫十郎が再び芥川山城で挙兵したため、儂ら長慶勢は、丹波八上城・京の東山・摂津の芥川山城と三者を同時に敵にすることになり、昨年初頭の度重なる慶事が嘘のように、一年も経たずして危機的な状況に陥った。

丹波を転戦していた甚介を助けるため、越水城を発した儂は、蝉時雨の中、援軍を率いて、北摂津の三田(さんだ)辺りを北上していた。

甚介は波多野勢を八上城に追い込み、篠山川を隔てた佐々婆神社を本陣として城を囲んでいた。

「松永長頼様よりの御使者です」

儂の馬廻りが甚介からの使者の来着を告げた。

「申し上げます。我が(あるじ)が申しますには、弾正忠様の一軍は篠山には入らず、八上城からは見えない位置に陣取られますように、とのことでございます」

甚介には何やら妙案があるのだろう。儂は言われた通りに篠山盆地に入る間際、八上城から山を二つ隔てた小枕という所に兵を潜ませた。

間もなく甚介からの伝令がやって来て口上を述べた。

「一両日中に好機が訪れるゆえ、それまでそこに陣取り、好機を待たれよ。時至れば、一気に攻撃に転じ、お助けくだされ。と(あるじ)より言付かってございます」

「大儀である。長頼には『承知した』と伝えよ」

「甚介はどのような策を(ろう)しておるのであろうか」

長慶様が軍監として儂に付けてくれた瓦林秀重に尋ねてみた。

「それがしが思いますに、開戦と同時に姿を現し、敵側面を衝け、ということではないかと推察いたします。戦巧者の長頼殿ゆえ、あるいはそれ以上の秘策がお有りになるのでしょう」

甚介の戦術に興味を抱きながら、時が至るのを儂は待った。