天文二十年(西暦一五五一年)
翌十五日、この混乱に乗じてか、江口の戦いの後、逼塞していた宗三の息子の三好政勝が丹波国宇津に姿を現し挙兵したとの知らせが届いた。
そして五月五日、衝撃的な知らせが京の三好邸に飛び込んできた。長慶様の岳父である遊佐長教が珠阿弥なる僧侶に殺害された、という。
珠阿弥は長教自身が帰依している時宗の僧侶で、幾人かと端午の節句を祝いつつ、寺の庭の菖蒲を愛でながら酒を酌み交わしているところを襲われたという。
進士賢光の襲撃、三好政勝の挙兵、遊佐長教の暗殺、この一連の動きは、将軍義輝公か細川晴元が後ろで糸を引いているに違いなかった。取り分け同盟者でもあり実力者でもあった遊佐長教の死は、長慶様にとって大きな痛手となった。
儂ら長慶勢は越水城にあり、京を留守にしていた七月、三好政勝が丹波の宇津から兵を動かした。丹波の国衆ら三千を率いて入京し、船岡山から等持院を経て相国寺に陣取った。
「弾正忠、甚介ともに京へ行き、賊を潰してまいれ」
珍しく怒りに満ちた形相の長慶様は儂ら兄弟に命じた。
「承知仕って候」
摂津・阿波・和泉などから集めた四万もの大軍を率いて、儂と甚介は京を目指して進軍した。
「兄者、目に物見せてやりましょうぞ」
「御屋形様に刃を向けた御礼と、遊佐様の仇。討ってやろうではないかぁ」
珍しく儂も力んだ。
上洛するとすぐに、儂らは相国寺を包囲した。対する三好政勝勢は堅く門を閉ざしたまま寺内に閉じ籠り、辺りに敵兵の姿はなく、蝉時雨だけが満ちていた。
物見によると、敵の兵の数は凡そ三千という。
此度の戦は、後ろで糸引く者どもへの見せしめでもある。敵を恐怖のどん底に突き落としてやる必要があった。
「皆の者、此度は我が御屋形、三好筑前守様に刃を向けた者どもへの報復である。我ら四万の大軍に対して、敵は僅か三千。恐るるに足らず。敵を全員撫で斬りにせよぉ。掛かれぇ!」
馬上の儂は、長慶様から預かりし采配を力強く頭上より振り下ろした。
儂ら長慶勢は数を恃んで、ただ我攻めし、政勝勢も必死で奮闘した。昼頃から始まった戦は、次の日の夜明けまで続いた。ただ、日が暮れてから明け方までは戦ではなく、ただの一方的な殺戮であった。
儂ら長慶勢の圧勝であったが、敵の大将の三好政勝は逃亡したようであった。そして当然、相国寺の塔頭・伽藍は灰燼に帰した。