2007年
シャルル・アズナブール
十一月も末になった。フランスでこんな寒い季節にはカフェでホット・ココア(ショコラ・ショという。ショコラはチョコレート、ショは熱いという意味)を飲む。カップになみなみと温かいココアが注がれ、それを飲むと身体が温まるのである。
シャルル・アズナブールのコンサートに行ってきた。私くらいの年代だと中学から高校くらいにアズナブールの歌がよくラジオで流れていた。日本人でも彼の名前を知っている人は多いと思う。
曲の題名は知らなくても、聴けば「あ、これは聴いたことがある」という人が多いのではないだろうか。ディスコグラフィーを見ても、『Non je n’ai rien oublié(遠い想い出)』、『Les comédiens(コメディアン)』、『La bohème(ラ・ボエーム)』 など私達がよく知っているのは六〇年代から七〇年代の曲だ。
インターネットで検索すると、一九二四年生まれとあるから八十三歳である(二〇〇七年当時)。でも現役で歌っている。
日本でいえば北島三郎、生きていれば三波春夫級の国民的シャンソン歌手といったところだろうか。そのコンサートがレンヌであると聞いて、これはなんとしても聴かねばとチケットを買った。これが高い。
七十三ユーロ(当時のレートで一万一千円〜二千円くらい)もした。フランス人に「シャルル・アズナブールのコンサートに行くんだ」と言うと、もちろん皆彼の名前は知っている。
「すごく高い」と言うと、「う〜ん、彼は有名だからね。でも日本でも有名だとは知らなかった」という反応。「だけど七十三ユーロでは製造現場の人の給料ではなかなか行けないね」とのことだった。
コンサートは土曜日の夜八時三十分開演。アパートから郊外にあるミュージックホールまで車で二十五分くらいだろうと、それでも余裕を見て七時四十分には家を出たのだが、会場の周辺の道路が大渋滞。結局会場に着いたのは開演ぎりぎりだった。
「う〜ん、こんなに人気があるのか」と改めて感じた。会場はミュージックホールとは言うものの、大きな倉庫のような建物で、一階は折りたたみのパイプ椅子。
二階席もプラスチック椅子で、今年の春、東京で開催されたシャルル・アズナブールのコンサート会場東京国際フォーラムとは大違い。それで七十三ユーロはあまりに高い、とまたまたぶつぶつ……。
ようやく席に着き、あたりを見回すと、ほとんど中高年のおじさん、おばさんばかり。それでも大きな会場がぎっしり埋まっている。八時半開演だが、まずは前座の女性歌手。それが終わって休憩時間。
いよいよ大御所アズナブールが登場したのは九時三十分を過ぎていた。やれやれだ。前半は新曲なのだろうか、私の知らない曲ばかりだった。
それでも親しみ易い曲だ。バックにはリズムセクションの他に小編成のストリングス、バックコーラスが二人(内一人はたぶん彼の娘、それとも孫?)。それらを従えて朗々と歌う。
ステップも軽やかでとても八十三歳とは思えない。後半はヒットメドレーだ。私の耳にもなじんだ曲が続き、十代の頃が懐かしく思い出される。周囲のおばさん達も口ずさみ、手拍子で会場全体が一体となっていた。
曲が終わると、ブラボー!と後ろのおばさんの声。フランスでは夫婦やカップルで来るのが普通だが、どうもおとうさんよりおかあさんのほうが乗りがいいようだ。おとうさんは仕方なくついてきたという感じだろうか。
最後の曲が終わると会場総立ち。アンコールの拍手が鳴り止まない。
だが、あっさりライトが点いて場内が明るくなりアンコールはなかった。がっかり。無理もない、時計を見ると夜の十一時二十分。日本と比べてコンサートの開催時間帯が二時間はずれているのではないだろうか。
このようにフランス人の特に土曜日の夜は遅い。駐車場から出るときも大混雑。結局アパートに帰ると十二時であった。
それにしてもシャルル・アズナブールとフランス人。音楽的には決して斬新ではなく、おそらく何百回、何千回と歌った曲だと思う。お客さんの期待に応え、楽しませればいいというエンターテイメントに徹している。
それを歓迎し続けるフランス人。懐メロは楽しいことは楽しいが、世界のミュージックシーンでこれが幅広く受容されるだろうか?
フランスは文化保護政策をとっていて、例えばラジオの音楽番組でも放送する曲の五十%以上はフランスの歌手の曲を流さなければならないという規制があるという。
日本では考えられない。テレビの音楽番組も若い歌手が昔のシャンソンを歌ったりという番組が多く、フランスだけで自閉しているのではないかとも思えてしまう。
あるフランス人によるとこうした保護主義によってすっかり世界における競争力を失い、ユーロビジョンコンテストでもこのところフランスの歌手は振るわないとのことである。