天文十六年(西暦一五四七年)

河内高屋勢は散り散りとなって高屋城を目指して退いていき、儂ら長慶勢はそれを追撃し高屋城を囲んだ。

河内高屋勢の敗報を近江で聞いた将軍足利義晴公は落胆し、抵抗を諦めて晴元様と六角定頼のもとに和睦の使者を寄越して来た。

年が明け、天文十七年になると六角定頼の仲立ちにより、越年で高屋城を囲んでいた儂ら長慶勢と城方との和睦交渉が始まり、四ヶ月に及ぶ交渉の末、天文十七年四月二十七日、和睦が成立した。しかもその副産物として長慶様のもとに遊佐長教の娘が嫁ぐというおまけ付きとなった。

ただ、この和睦には〈いわく〉が付いた。

というのも、氏綱派を駆逐したい晴元様は和睦に難色を示し、それゆえに晴元様を熱狂的に支持する丹波の波多野晴通は (はな)から和睦には反対であり、和睦を進めたい長慶様と対立した。そして何故か、

「和睦するなら妹を返せ」

ということになり、波多野家から嫁がれていた長慶様の奥方様すなわち千熊丸様のご母堂様は、果たしてご実家に出戻ることになったのである。

そして、この〈いわく〉は、今後の儂らの行く手に暗い影を落とし、苦難の道を強いることとなるのである。

「お前様、千熊丸様はいかにされていらっしゃるのでございましょうか。御母堂様から引き離されて、お可哀想でございます」

千春は、千熊丸様のことを案じていた。

「侍女らが身の回りの御世話をしているようだが、千熊丸様はまだ七つというに、寂しそうな素振りも見せず、気丈に振舞われているようだ」

「さようでございますかぁ」

一瞬、憂い顔をした千春であったが、いつものように柔らかく微笑んで、

「もし御殿様の御許しをいただけるのであれば、私が千熊丸様をお育ていたしとうございます。幸いうちの彦六は千熊丸様の一つ年下。罰当たりなこととは存じますが、兄弟のようにお育ていたせば、千熊丸様も寂しい思いをぜずにお暮らしいただけるのではないでしょうか」

「千春、それは妙案じゃ。千熊丸様のことは、儂も気に掛けていたところじゃ。そうして差し上げれば、千熊丸様もきっと嬉しかろう」

千春のこの提案を儂はさっそく長慶様にお話ししたところ、長慶様は大いに喜ばれ、千熊丸様を儂ら夫婦に託すことにされたのである。

斯くして、千熊丸様を我が子同然にお育て申し上げることとなった。