四天文十七年(西暦一五四八年)

細川氏綱派との戦いに勝利を収めた細川晴元様は、今回の戦で氏綱方に加担した摂津の国衆の池田信正に腹を切るように命じ、その子池田長正に池田家の家督を継がせた。

長正の母は三好宗三の娘で、長正に家督を執らすことによって池田氏を晴元派に完全に取り込もうとする意図が見え見えの処分であった。

それゆえ、この一件は宗三の讒言によるものであると噂され、摂津三宅城城主の三宅国村など多くの摂津の国衆が疑念を抱き、越水城の長慶様の元を訪れ、皆々様はとても収まりがつかぬといった口調で、長慶様に訴えた。

「筑前守様(長慶の官途名)、今回の池田家に対する右京大夫様(晴元の官途名)の御沙汰には納得できませぬ」

「筑後守殿(池田信正の官途名)は戦わずに開城したはず。腹を切らねばならぬほどの大罪とは思えませぬ」

「筑後守殿は宗三の娘婿であろうに、身内をも死に追いやる輩なぞ信用できんわっ」

長慶様の脇に控えていた儂も『宗三ならばそんなこともあるかも知れぬ』と思いつつ、『この噂は、いったい誰が言い出したのだ。遊佐長教が言い触らしているのか』などと考えを巡らしながら国衆たちの訴えを聞いていた。

国衆たちは疑念と不満を口々にした後、それぞれの城へと帰っていった。

そして八月十一日、池田城において、宗三派の家臣が反宗三派の一団によって追放されるという事件が起きた。

反宗三派の一団は池田長正をそのまま城主として推戴することとし、長慶様と(よしみ)を通ずるべく、使者を越水城に寄越してきた。

長慶様の動きは速かった。翌八月十二日、長慶様は、三好宗三を晴元政権から排除すべく、意見書を晴元様に送りつけた。が、宗三を重用している晴元様はこれを黙殺し、何の動きも見せなかった。

そこで長慶様は、越水城に摂津の国衆らを呼び集め、一堂に会した場で宣言したのである。

「各々方、良うこの筑前(長慶の官途名)の呼びかけに応じてご参集くだされた。先日来、皆様方から色々とお話を承ってござるが、その申されることはいちいち(もっと)もである。此度の池田家に対する右京大夫様(晴元の官途名)の御沙汰は明らかな誤りであり、その横で要らぬことを申す三好宗三こそは獅子身中の虫である。このまま宗三を庇いだてするようであれば、たとえ右京大夫様といえども容赦せぬ。万事この筑前にお任せいただけようか」

参集した国衆に「否」と申す者は一人もおらず、衆議の結果、三好宗三の討伐を決した。

秋も深まった十月下旬、長慶様は四月まで干戈を交えていた細川氏綱と、その与党で長慶様の岳父となった遊佐長教と同盟し、細川晴元・三好宗三の一派との対決姿勢を鮮明にしたのである。

長慶様は岳父の長教様に援軍を要請するとともに、十河一存を先鋒として、宗三の息子である三好政勝の籠る摂津榎並城に向かわせ、城を取り囲んだ。京を戦火に巻き込むことを避けるため、晴元・宗三の一派を摂津に(おび)き出す作戦をとったのである。

この時、摂津の国衆の大半は長慶様のお味方となっていたので、榎並城は孤立状態となった。