なにもできない自分を知る
私はといえば、毎日報道されるそうした人々の活動をただ茫然と見ていた。
なによりも、そうしたとき、自分にできることで人の役に立ちたい、立てると思ってきたはずだったのに、いざとなった今、私はなにもできないのだという衝撃で打ちのめされながら茫然としていた。
被災した人々のために活動できている人々の姿が羨ましく、なにも動けずにいる自分が空しくて涙ばかりこぼれた。
あのとき、私はちょうど膝を痛めていて、駅の階段も後ろ向きに一段ずつ降りているような状態だった。ボランティアに入ったとしても、膝も曲げられない高齢者など足手まといに決まっている。第一、もともと肉体労働は極めて苦手だったし、ほとんどしたこともなかったのだ。ボランティア活動で、最初に倒れるのは自分だろうと想像できた。だが、そんな理由など私がなにもできない言い訳に過ぎない気がした。
人々を励ますために歌を唄うとか、お笑いの芸がある人々が羨ましかった。その人の顔を見るだけで、人々が嬉しくなり、励まされる”アイドル”や”スター”という人々の存在の意味もいやというほど感じた。そういうことも力なのだとつくづく実感した。
消防や自衛隊の人々の命がけの働きに感動しては泣いた。いち早くインフラの整備に知恵を絞り、会社の生産を守るため物流の確保にグローバルに動き出す企業の人々の活動の力強さに感銘も受けた。
これは後になって知ったのだが、プラントハンターとして活躍中の西畠清順さんという方は「自分にできることで日本を、日本人を励ましたい」と考え、全都道府県すべての桜を一堂に集めて、ある日いっせいに満開にさせるというイベントを行ったという。その日に、いっせいに満開になるように桜の木の養生をして、準備したのである。これこそ「自分にできることで頑張る」ということだろうと思う。みんな、それぞれに自分にできることで頑張っていたのである。