そんな私が仲間たちと串本の大島を散策した時のことだった。三々五々仲間たちとそぞろに歩いた大島の通りに沿って、ステンドグラスの美しいトルコの土産物屋が軒を連ねていた。
その街外れには、遭難したトルコ軍艦の慰霊碑が立っていた。
漢文で書かれていて、傍にいたMという少女が、読んでくれと言うので、「それなら、やっぱり、Hさんだね。漢文は明治の人の必修だったろうから」と、年老いてコオロギのように痩せたHさんに話を回すと、彼はわざとらしく憤慨したような声をあげた。「昭和の生まれだ」と言って、大げさに怒って見せているようだった。それを聞いていた周りの仲間たちは、どっと声をあげて笑った。
七年後の今となっては、そんなことも遠い昔の思い出になってしまった。Hさんが死んでからでもすでに久しいのだ。皆が一緒に写った串本の写真を見ていると、Mという少女も含めて、死んでいった仲間たちの笑顔には、どこか耐えきれない悲しさが、潜んでいるように見えるのは、気のせいだろうか。
遠い思い出の中で、崖の上から見下ろす串本の海は、透明に澄んでいて海の底に魚影を映していた。美しい海だった。しかし、私はもう二度とこの海を見ることはないだろうと思っていた。明日をもしれない命だったのだ。「もし、生き延びて再びこの海を見ることになるなら、どんなに仕合せなことだろう」と思いながら、名残りを惜しむように串本の海に見入っていた。
そんな串本研修の終わり頃、私は激しい恐れに取り憑かれた。それは今の現実に対する恐れではなくて、子供の頃の恐れのフラッシュバックだった。幼い私の不安や焦燥の感情が、わけもなく蘇ってきて、心に取り憑いて離れなかった。
そして、悪寒を覚えるような激しい寂しさにも襲われた。冷たい風が心の空洞を煽るように吹き荒んでいた(私の感覚は幼年時代のそれに帰ったようなところがあったのだ)。
私はそんな自分を持て余して、「なぜか、寂しくて仕方がないのだよ」と呟くと、例のMという少女は、訝るように私を見つめていたが、小さな声で「私もそうなの」と応こたえた。
そんな私がふと喉が乾いたような飲酒欲求を覚えてしゃがみ込むと、駆け寄ってきたMが「トシさん、がんばってね、がんばってね」と背中を擦ってくれた。