先生は単に浅間地区のみでなく、長野県国保直診医師会を重視し、その会長に就任しました。長野県でそれは病院四、診療所五十二という大きな組織になります。そこでの仕事として、まず糖尿病の地域検診を行いました。それは三十三市町村、九千八百四十六名に及びました。糖尿病検診は日本糖尿病学会の基準に則って実施されました。インスリン自己注射を長野方式として導入され、健康保険適用にさせました。

以上のように、先生はそれが住民の保健に役立つと思ったら直ちに行動を起こす、その問題点を調べ上げる、反対の意見を十分に聞く、誰に対しても胸襟を開いて話をする、学問的根拠があるのでどんな人間も心服しました。

こうした住民による保健活動の成果は予測を遥かに超えるものでした。脳卒中死亡率は著しく低下し、長野県平均値はおろか、日本の平均値を下回るまでになったのです。行政の誰もが驚きました。

こうして名誉ある保健文化賞授与をはじめ、長野県知事、厚生大臣からも表彰されました。糖尿病に関しては日本糖尿病協会から表彰され、さらに日本糖尿病学会からは糖尿病学進歩功労者として最高の名誉である坂口賞を授与されたのです。

今や長野県民は、健康長寿日本一であり、医療費が最も低い、模範的な県であることが知られています。住民はこのことに自信を持ち、自立することに誇りを抱いています。

吉澤先生は常に多忙でしたが、健康ではありませんでした。実際はその正反対です。糖尿病の持病があり、脳梗塞、心筋梗塞、頚椎症などで何度も入退院を繰り返しておられました。私は東大病院に入院して心臓病の精査、加療をしてはと何回も勧めましたが、頑として浅間病院を動きませんでした。

先生は文筆家で、以前は小説までお書きになりました。一高在学時には寮歌を作り、それは今も歌われているとのことです。特筆すべきは先生の短歌です。それは、斎藤茂吉系統のアララギ派に属し、折にふれての作品がすでに四冊も出版されています。

以下の二首は、晩年に詠まれたものです。

吾が人生演じ終りて去るときは、幾許の拍手あれかしと念ふ

世界一長寿国日本の一位ぞと、誇れ地域医療県長野の人等