健康長寿の医師になるまでの自分史
臨床心理学者の河合隼雄が、生きるとは自分の物語を作ることだ、と言っています。
九十二歳まで老年内科医として生きてきたこの物語を、記憶をたよりに私も残しておきたいと思っています。そこでまず自分の略歴から語ることにしました。
私の生い立ち
私は一九二九(昭和四)年三月十三日に、杉並区荻窪で生まれました。その頃の荻窪は、東京の郊外で杉並区のほぼ中心にありました。育ったのは、駅の南口から三分という交通至便なところでした。周りにはまだ空き地が多く、子供にとって格好の遊び場でした。
私の家系では、父方は徳川の士族でした。父は早くに父親を失い、牧師として知られる田村直臣の経営する自営館の学僕となり、後に巣鴨教会の長老となりました。早稲田大学商学部を卒業し、会計を専門として会社勤めをしました。真面目で勉強熱心でした。
母は、北海道松前出身で、負けん気が強いが人にやさしく、向学の志があって上京しましたが、父と結婚することになりました。
兄弟姉妹は七名ですが、長兄が夭折したので、実際は六名です。上に姉、兄、下に弟、妹二名がありました。両親は大変教育熱心で、子供を四谷にあった東京最古の番町小学校に入学させました。番町小学校は進学校としても知られ、ここから府立一中(現日比谷高校)や府立四中(現戸山高校)に進み、さらに一高から東大へ入学するのが、エリート社会人として知られるコースでした。
当時の学制は現在と違い、小学校を卒業すると中学の入学試験がありました。東京府立、東京市立が公立で、府立一中、四中の入学試験が難関でした。中学は通常は五年で、その後は高等学校、専門学校への進学制度があり、第一高等学校(一高)、第三高等学校(三高)が難関でした。三年のコースを経て、大学三年(医学部は四年)に進学しますが、東大や京大の入学試験にもパスする必要がありました。
現在のように中学校は義務制ではないので、小学校卒業後は進学のたびに入学試験を受ける必要がありました。また陸海軍の進学制度もあり、陸軍幼年学校は中等学校程度、陸軍士官学校、海軍兵学校は高校程度の難関でした。他にも経理学校などがありました。
私の兄と弟は府立四中に進学しましたが、私の卒業時に限って試験的に入学試験が廃止され、内申書と面接ということになりました。私は算術(数学)と国語は得意でしたが、担任の先生との折り合いが悪く、府立四中は落第、次に受けた麻布中学も落第となりました。入学試験がなかったのは、私の卒業年だけでしたので、不運でした。
仕方がなく、私学の夜学に通いましたが、幸いに一学期終了後、新設の城北中学(現在の城北中高校)に編入試験があり、それに合格して中学生となりました。
だがこの中学は、校舎もなく、後に板橋に新設されましたが、当時は市ヶ谷の予備校に間借りをしているような状況でした。
一方、当時は軍国主義華やかな時代で、多くの志ある生徒にとっては、陸軍幼年学校が憧れの的でした。
入学試験は難関で、三十倍ともいわれました。中学一年か二年の学業終了が入学資格でした。私は中学一年でしかも三月生まれの最年少でしたが、とにかく挑戦してみました。他の学科は未知でしたが、算術はやさしいと思いました。
そして図らずも、昭和十七年三月十日、名古屋陸軍幼年学校合格の電報が届いたのです。やっと誰もが憧れる幼年学校に入れるのだ、その喜びは何ものにも代えがたいものがありました。