佐貫の駅の方から国道を横切ると佐貫の古い街並みになる。ただし家々は現代風である。

それでも城下町の香りが微かにではあるが感じられる。突き当たって城下特有のかぎ型になっている道を右手に取って行くと、かつての武家屋敷街らしくなり、その先に城跡があるようである。しかし春分の日も近く日も長くなってきたとはいえ、辺りはだいぶ暮れて来ている。

相場の墓のある寺は、入るに満足な道もないと何かで読んでいたこともあり、出直すかと思いつつ、この辺りではと曲がった先に、おお! それらしき寺が見えた。小高い丘の上にお堂が見え、丘の手前を小川が流れ、川原には菜の花が咲き乱れている。川には立派な橋が架かり、寺の前まで舗装道路であった。

寺自体は無人で簡素な小屋といった造りであったが、十分に有難味があった。相場の墓は御堂の前を通ってその右手やや奥にあった。墓には花も供えられ、平成9年と記された慰霊碑もあった。慰霊碑によると、助右衛門の妻寿美子は助右衛門の死の2年後、1870年に自害している。

群馬県の前橋に小河原左宮と白井宣左衛門の墓を訪ねたのは4月の末であった。群馬県は政治の中心である前橋市と商業の中心である高崎市とが、そう遠くない距離で役割を分担している。それだけに前橋は悪く言えば活気に欠けているが、良い意味では静かに落ち着いて趣のある街である。前橋へは高崎駅から歩いた。県庁の辺りが昔の前橋城の跡のようだが、城の名残と思われるものは見当たらない。しかし、この辺りからこの後訪れた小河原と白井の眠る寺、そして利根川沿いと、一帯の広大な緑地は見事なものである。

小河原と白井の寺は、昔懐かしい児童遊園地の隣にあった。飛行塔、回天木馬、豆汽車、色々な小振りの昔風遊戯施設がそう広くはない敷地にずらりと並び、そこここで子供たちが歓声をあげていた。

寺はその向こうである。墓地は広い。庫裏で二人の墓の位置を聞く。白井の墓は白井家の墓地にあり、今でも白井家の人たちに守られているようである。墓石に慶応4年6月12日の文字が読み取れた。

小河原の墓は、寺の入口近くの駐車場の脇にあった。塀の裏はすぐ遊園地で、子供たちの声が絶えず聞こえていた。墓石には、慶応4年閏4月3日の文字があった。

寺から出ての帰り、遊園地の終園の音楽が流れ、広大な利根川河畔の緑地では大勢の市民がいつまでも沈まない太陽の光を浴びてあるいは散策し、あるいは走り回っていた。