初めての母の説法は
私の記憶のなかで母から神様のお話を聞いた最初の記憶は小学校一~二年の夏のことだ。その頃、私たちはまだ疎開先の海辺の町にいた。
夏休みの午前中は毎日妹と二人で海に泳ぎに行った。母はその間盥に水を張って日向に出しておいてくれる。私たちは帰ってくるとすぐ、その生ぬるくなった盥の水に入れられて体を洗ってもらう。ガス湯沸かし器など、まだまだ遠い時代のことである。
戦後すぐで、食べ物も不自由だった時代だが、母は豆の粉を水で溶いて沸かしたもの、少し甘かったから砂糖が入っていたのだろうか、それを二人に飲ませてくれる。泳いだ後の体を温めてくれるのだ。そうして昼食の後は昼寝をする。
そんなある日、すぐに寝入った妹のそばで私はいつまでも眠れないでいた。そのとき並んで寝ていた母は団扇の風を送ってくれながらいろいろな話をしてくれたのだろうと思う。だが私が今も覚えているのはただ一つ。
「誰が風を見たでしょう 僕もあなたも見やしない……」
という母の唄ってくれた歌だけである。そして母は
「風は見えないわね。でも風があるのはわかる?」
と聞いた。
「わかる」
「そうよね、風が吹いているのは誰でも知っているわね。木が揺れたり、洋服が揺れたりするから風だってわかるのよね。見えなくても風はある。それと同じ。見えないけれど神様もいらっしゃるのよ」
そのとき母はそういった。いまの私なら、“木が揺れるのと同じような証拠はどこにあるの?”などといういやらしい質問をしたかもしれない。でも、子供だった私は全く何も疑わず母のその言葉を信じた。
「そうか、神様はいらっしゃるのか」
そう思ったのである。そして、その思いは今日に至るまでずっと変わらない。
「誰が風を見たでしょう」
というこの詩は、イギリスの女流詩人・クリスティーナ・ロゼッティの詩である。西條八十の訳がよく知られている。
誰が風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木の葉をふるわせて
風は通りぬけていく
誰が風を見たでしょう
あなたも僕も見やしない
けれど樹立が頭をさげて
風は通りぬけていく
作曲もされているので、母は歌として知っていたのかもしれない。とても優しい童謡のような歌詞だが、母が受け取ったように深い意味があるような気もする。こんな風にして、私はその後も母のたくさんの言葉を浴びながら育った。