「鳰はどれぐらいの時間、潜っている?」
「さあ、それは先ほど言ったように、鳰はどれも同じような羽の色で、大きさも同じ位なので、潜る鳰と浮上する鳰が同一なのかわからないので、潜水時間はなんとも言えません」
「俳句では言い切るということがある。言い切ってしまえばこちらのもの。俳句で何々はこうだと、強く言い切れば、よほど理不尽な物でなければ、読み手はそんなものかと了解する。それで、当てずっぽうでよいのだが、井の頭公園の鳰の潜水時間はおおよそどれくらいと思うかね」
「数回、スマホのストップウォッチで測ってみたのですが、一分半前後でした。ただし、鳰に印をつけて測ったのでないし、水中に餌を見つけた時と、その場所に餌がいなかった場合で、潜っている時間は異なると思います」
「俳句は夏休みの自由研究ではないから、生物学的正確さは問題にならない。言い切ってしまう思い切りが大切だ。『一分と二十六秒潜る鳰』とか」
「そんないい加減なことでよいのですか。また、数字を使って事実(のようなもの)だけを報告している句で、俳句のうるおいというか詩情が感じられません」
「読み手はいろいろだから、君と違うように感じる人もいよう。鳰を見て、正確な潜水時間を測定しようなどという酔狂な人が存在し、測定結果を正確に数字でちゃんと示すことを、面白がる人もいるかも知れない。私なら、この句をしらっと句会に出してみるがね」
神様がかき消えると、すぐに俳人の写真集をめくった。俳句の神様は高野素十の姿をしていた。この俳人の名は忘れられない。ある句の鑑賞でこの高名な俳人の名を「そじゅう」と呼んでしまい、多数が参加した句会の席で、私の不勉強がばれて、赤恥をかいたことがあるからだ。
今回の神様は、真面目な顔をされていたが、思い切って言ってしまえ、結果が良ければいいじゃないかという、やや勝負師タイプの方だった。決然と言い切るという俳句を学んだが、私の場合、いくらなんでもそれは無理でしょうと、句会で一蹴されることが度々ある。私は押しがめっぽう弱くて、大事な勝負の場でもそれが出てしまう。
一分と二十六秒潜る鳰
甘草の芽のとびとびのひとならび 高野素十