壱─嘉靖十年、漁覇翁(イーバーウェン)のもとに投じ、初めて曹洛瑩(ツァオルオイン)にまみえるの事
(1)
私はべつに、講師の態度に反抗したのでも、拝金趣味を難じたわけでもなく、教えられる内容が、真実からかけ離れていることを示したかっただけなのである。
本人の意図とはうらはらに、私はちょっとした英雄あつかいであった。世の中には、不思議なことがあるものだ。
「なんだか、むずかしそうな顔をしているな」
「はやく給金をいただきたいと思いまして……」
「ははは、正直なやつだ。買いたいものでもあるのか?」
「はあ、着替えがほしいです。これ一枚きりしか、もっていないので。白雲観(はくうんかん)の縁日にも、行ってみたいです。あとは、まじめに働いて、ある程度の蓄えができたら、兄と妹をさがします」
「さがして、どうするんだ」
「一緒に暮らせればと思いまして。小さいときにちりぢりになったんです」
「ふうむ……どこに住んでるのか、わかってるのか?」
「わかりません」
「大陸は、広いんだぞ」
見くだすように、目をほそめる。
「見つけます。見つかるかどうか、わかりませんが」
「そ、そうだな、きっと見つかるさ。生きていればきっと……死んじまえばそれまでだがな。生きてないと、できねえことがあるんだよな」
すかんぴんから抜け出したい。莫大な富など最初から望んではいないが、明日の飯の種を心配せずとも、生活できるようにはなりたい。切なる願いであった。そのために、男をすてたのだ。
早く、来い――私は、家族の形見をなでさすりながら、一日千秋の思いで給金日を待っていた。
そして、ついに、その日がやって来た。
「おい、召集だぞ」
先輩のひとりが声をかけるのをきいて、私も、ついて行った。
見れば、銀をふところにした宦官たちが、喜色満面、ひとり、またひとりと退出してゆく。三々五々連れだって、上機嫌に軽口をたたきながら、城外へと姿を消してゆく者もいる。
次か、いや、その次か……首をながくして待った。しかし、いつまで待っても、私の名を呼ばわる声は、聞かれなかった。
「以上! 解散!」
給付終了の声が、堂宇にひびいた。
そんな、バカな。
担当官に訴えた。
「昨年末より浄軍に配属された、王暢(ワンチャン)でありますが……」
「む?」
「まだ、頂戴しておりませぬ」
担当官は無言で、名簿にさーっと目を通した。
「王暢(ワンチャン)などという名は、記載されておらぬ」
「お待ちください。なにかのまちがいではありませんか」
「わが朝の宦官は、ひとり残らずここに名前があがっている。まちがいなどあるはずがない」
にべもなく言い放つや、担当官はすたすたと去っていった。
全身から、力がぬけ落ちた。これでは、話がちがうではないか! 宦官になれば、毎月、いくばくかの銀と米がもらえて、衣食住の心配なく生活できる。そう信じたからこそ、自宮の道をえらんだのである。藁にもすがる思いであった。
その、たった一縷(いちる)ののぞみが、こうも簡単に、うち砕かれようとは!
人が去りつくしても、私は、その場から、立ち上がれなかった。
「叙達(シュター)か?」
ぽん、と背中をたたかれたが、ふり返る気力もなかった。
「やっぱり叙達(シュター)ではないか、こんなところに一人で、いったいどうした」
顔をのぞき込んで来たのは、あの趙大哥(チャオターコウ)であった。私は、年がいもなく、すがりついておいおいと泣いた。
「……給金が、いただけませなんだ」
「なに?」
大哥は、絶句した。
「まさか、おまえ、黒戸(ヘイフー)だったのではあるまいな」
「黒戸(ヘイフー)?」
「叙達(シュター)よ、よく聞け。宦官には、二種類あるのだ。わが朝の名簿に、正式に名前が登録された正戸(チャンフー)と、そうでない黒戸(ヘイフー)と。
正式に登録された正戸なら、所属する衙門から給料が支給される。しかし、登録されていない黒戸(ヘイフー)には、まことに残念ながら、出ないのだ。
だから、黒戸(ヘイフー)は、有力な宦官にとり入って、お仕えの道をさがすしかない。李清綢(リーシンチョウ)師父の世話になったときに、聞かなんだか?」
「……いいえ」
「気の毒だが、わたしにも、どうしてやることもできん」
趙大哥(チャオターコウ) は二、三歩あとずさり、やがてきびすを返して、去っていった。
いつまでも、ここにうずくまっていても仕方がない。私は、のろのろと立ち上がった。
塒(ねぐら)へ帰ろう。帰って寝よう。念じたのは、ほとんど唯一の財産ともいえる、薄っぺらいふとん――それは、李清綢(リーシンチョウ)師父が、せんべつにといって、くれたものだ――のことであった。
落日、地に長く伸びていた伽藍(がらん)の影が、深まる夜気へ溶け込んでゆく。うらさびれた風が吹けば、どうせ自分なんか、という言葉が、しぜんに口をついて出た。
長屋への道をとぼとぼと歩きながら、考えた。
自分は、命がけの試錬をくぐり抜けても、誰からも認められぬ、塵芥(じんかい)の一粒子にすぎないのだ。わが人生でゆるされた愉悦は、寝ることだけなのかもしれぬ。
それにしても、どうして自分だけが……!
脳裡には、銀を手にした先輩同輩の、うれしそうな顔がよみがえった。彼らが足をむけたのは、名うての料理人が腕をふるう名店だろうか。胡姫(こき)が葡萄(ぶどう)酒をそそいでくれる酒旗(いざかや)かもしれない。
あるいは、気がねなく長居できる、行きつけの賭博場とか。
腹ぺこだったが、屋台に立ち寄るだけの小銭もない。
(腹へったなあ……)
あちこちから流れてくる、炊爨(すいさん)のにおいが、ますます、みじめさを、あおった。
大道芸人のうたう端歌が、どこからともなくきこえて来た。
ふとんに身体を投げ出して、眠ろう。霞(かすみ)がかかったような、ぼんやりとした頭で、そう念じた。どこを、どう
歩いたのかもおぼえていない。
せまい塒(ねぐら)に帰りつくなり、ばったりと崩れた。着がえもせず、そのまま、ふとんの上を二転三転し、狂ったように、頭をかきむしった。
手が、無意識に股間をまさぐっていた。ごわごわと突っ張った皮が、下腹から尻にかけての部分を、むなしくおおっている。かつてあった突起をまさぐろうにも、それは永遠にかえって来ず、のっぺらぼうの皮膚を上すべりするばかりだ。
手おくれだ。もどることはできない。なんで、宦官なんぞになっちまったのか。
蚯蚓(みみず)は胴体を切ってしまっても、ほどなく再生するというのに、なぜ自分のそれは、ふたたび生えて来ないのか。人はみみずに劣るのか。いや、みみずなどどうでもよい、明日からいったい、どうすればいいんだ。
念佛などを唱えて目を閉じたが、怒りやら、屈辱やら、自嘲やら、いろんな思いが脳裡を交錯し、ついに一睡もできなかった。