歓喜の円空 ―一寸彫って一寸の地獄 一寸の浄土

◆津波

延宝五年三月十二日戌刻三陸沖地震 三陸沿岸地帯に津波

東北回国遊行の円空の面前に津波

大津波が襲って来たのだ

巨大な水の壁が押し寄せて来たのだ

汚泥を浚い立木家屋を浚い人犬猫牛馬を巻込み津波が押し寄せて来たのだ

陸が呑まれ郡が呑まれ町が呑まれ村が呑まれ円空も呑みこまれたのだ

陸が消え町が消え村が消え人間が消えた

瓦礫には無数の死体が引っ掛かっていた

家並みは跡形もなく田畑は泥沼になった

丘の上に魚が海を向いたまま死んでいた

夕日を受けた樹には人が吊るされていた

凄まじい自然の忿怒形 巨大な破壊の出現

陸が消え町が消え村が消え人間が消えた 世界が消えていた

襤褸切れが

目をあけた

何も感じない

何も考えられない

世界が空っぽになったのか

空っぽの世界に空っぽの俺が生き残ってしまったのか

被災三日目

生き残った村人が

小高い丘の上の平場に集合し救護所とした

人々は誰もがぼんやりとしていた 黙ってのろのろと動いていた

それぞれに行方のわからぬ家族を探しに出ていった

そして二人の幼な子が残された

小さな水溜まりで遊んでいた

その水溜まりに山の端からまんまるの月が昇ってきた

月が出たよ!月が出たよ!と子どもは指さして不在の母を呼んだ

津波の惨劇が残した水溜まりに映し出された満月

なんて美しい月だろう

なんて愛しい子たちだろう

そのとき

空っぽだった心が

小さな水溜まりに吸い取られていった

自分の心が水溜まりに映る満月になっていくのだ

自分の呟きを自分の耳で聴いたのだ「この子どもたちのために

彫り続けよう 生命の尽きるまで」

そのとき

物言わぬまつばり子の視線が初めて真っ直ぐ前をみた

雲間から顔を出す満月のように「利他欲求」の魂が躍った

遠くを見つめて深く深く息を吸った

深く深く深く息を吐いた

自分にしかできないことをやって

人のためにこの身を役立ててと

そう思ったとき

細胞が動き始めたのだ

眦がぐいっと上がったのだ

瞼がいっぱいに見開かれ黝い眼球がぎらっと光ったのだ

口角が真一文字に結ばれ

そこに一人の忿怒明王が傲然と立っていたのだ