一乗寺下り松 ―武蔵よ もうちょっと生きてみるか
武蔵が
歩いている
一乗寺
下り松へ
吉岡一門が
待ちうけている
勝算など
あるはずもない
だが
そこへ行く
しょうがない
これがオレなんだから
1、出奔―かなしみをちからに おそれをちえに いのちは天にみちびかるべし
美作国吉備郡讃甘村宮本
苛烈な生い立ちだ
三歳で母と死別
養父無二斎は十手剣術当理流 狂気の剣客
物心つくと稽古と称して打ち据えられる恐怖と憤怒と嫌悪を噛みしめ成長
だが十二歳でその狂気の木刀を見切った
振り下される木刀の下でひたすら木刀を振り下す主体に同期する
そのとき木刀の動きが予測できる
そして狂気への恐怖を克服した瞬間から
木刀をもつ養父無二斎が消えてただ木刀の動きだけが
スローモーション映像のように見えはじめた
―不羈の子を養父は憎む
その日
「反抗するか」
怒声と共に投げつけた小柄
それをあっさり躱した無表情の片頬を見て
養父の狂気は剣客の殺意に変化
稲妻のように不羈の子に躍り掛った
だがその「動き」に無言の身体が同期
映像を再生するように組み敷かれたかに見えた上体を腰骨から
円く捻り返し右肘で喉を撃ち立上がって襲撃者を横転させ鳩尾を拳で一撃して昏倒させると
予定の行動であったかのように
素早く縁から飛び降りて
走った
家を出て
村々を抜け
暗い空の下を
疾走した
大原 日名倉 後山
幾つもの山陵を駆けた
かなしみをちからに おそれをちえに いのちは天にみちびかるべし―
誰もいない谷を渡り三室山に踏み込んだ
深い森に分け入りさらに分け入り森の奥の草地に倒れ込んだ
そのまま動かなくなった
目をあける
幽暗に囲まれ
母のような森の胸に抱かれている
その鼓動に同期している
―生まれた
と感じた
森 中国山地の森 日本列島の森 限りない生命の森 地球の生命力の森が
囁いた「森で生まれた子よ 森の子 武蔵よ」
そう聴いたとき
一人の孤独な天才が立ち上がっていた
山桜の木刀を
そっと振る
鋭く夜気が裂ける
振り下し斜めに振り上げる
包まれている森の霊威に「私」が消されていく
切先が意志をもつかのように
縦横に静かにきらめく
「谷」は響きを惜しまず
四方から見守る「森」が己の眼になる
それが己を視つめている
身体の動きも思考の動きも
幽かな心の動きも森の眼になって
自分が自分を視つめている―
不意に自得する
自分を消去する
それによってもう一つの眼を持つ
もうひとつの力の根源につながる 自分を超える働きそのものになる
生と死の刃の下に身を投げ出し自分を消し
白刃の下に生まれ 白刃の下で生きる
その生の働きに剣を委ねること 生死を委ねること
振り下される刃の下に生まれ瞬きの間の生を生きる必死の剣
生が生を超えて最大化する生の働きにすべてを委ねる自在の剣
頭上に白刃が煌く
そのとき白刃の下に斬られようとしているもう一つの主体が生起する
その主体は斬られようとして生まれ白刃が振り下されるまでを生涯とする生となる
そこにおいては振り下される剣がいかに速くても鋭くても
「速い」とも「鋭い」とも感じられないであろう
ただ初めての経験を生きるだけだから
十八日後に森を出た
もうオレはオレではない
師はいない父母はない家はない世間はないオレは誰でもない
森に生まれた森の子であるしかない
流儀はない礼法はない常識には縛られない
森の眼が見て己の手が触れたことしか信じない
生きるための手段を択ばない常に対象との間合いを詰め
どんな悪条件も発想の糧として変化し相手を見切り意表をつき
ただ生死の水際を生きることによってのみ用意される答えを生きる
十三歳 新当流の有馬喜兵衛を打ち殺した
十六歳 但馬の国の強力の兵法者秋山某を打ち殺した
十七歳 関ヶ原の敗軍宇喜田勢のなかにいて生き残った
落武者狩りの野武士を斬った
野盗の頭目辻風典馬辻風黄平を斃した
真剣をもって立合う者がどう動くかを見た
切っ先の一寸を見切る身体の感覚を身に着けた
人が何を恐れどう絶望するのかを森の眼で凝視した
生と死の狭間でどのように人が己を制御できなくなるのか
与えられた答えに囚われた人々がどのようにあがき死んでいくのか
答えは一つじゃない
行き詰ったら
それは展開の一歩にすぎない
一対一で向かい合う生死の刹那刹那があらたな答えを孕む
二十歳 鎖鎌の宍戸梅軒を二刀で斃した
二十一歳 京の西洞院の足利将軍指南役室町兵法所当主吉岡清十郎と蓮台野で決闘し
清十郎を待たせに待たせ動揺を見切り琵琶の木刀を振って打ち斃した
その復讐を挑んだ弟伝七郎には意表をついて素手で立合うや懐に飛びこみ左手の拳で
顔を殴りつけ右手で木刀を奪いとり片手で振り上げ頭蓋を粉々にした