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巡礼 赤松小三郎
赤松小三郎の墓を上田市の寺に訪ねたのは1月の下旬であった。赤松の墓は、その暗殺された京都にあるが、上田の寺にもその遺髪を納めた墓がある。
この日は快晴だったが、上田市街は前夜に降った5センチほどの深さの雪に一面の銀世界で、靴は濡れたが滑らぬよう、雪の解けかかっている通りの日向側を選んで歩いた。
寺は駅からそう遠くはなかったが、2.5万分の1の地図で見当をつけた場所ではなかった。雪掻きをしていた人に寺の名前を告げると、こちらから赤松という名を出していないのに、「赤松小三郎でしょ」と教えてくれた。上田では未だ赤松の名が広く記憶されているのかと嬉しかった。
寺は雪を被って清楚であった。本堂に向かって左手にかなり広い墓地が雪に埋もれており、その中央付近にある赤松の墓まで新雪を踏んで行った。墓石は小振りなものが赤松家の一坪ほどの墓域の入口正面に鎮まっていた。今でも子孫に守られている墓であった。
寺の入口にあった市の教育委員会の説明板には
「9月3日伏見から所用で帰る途中、幕府の協力者と疑われ、待ち伏せていた薩摩藩士桐野利秋らに襲われて亡くなった」
とあり、次に訪れた赤松の顕彰碑前の赤松小三郎顕彰会の説明板にも
「薩摩藩士桐野利秋によって殺害さる」
とあった。
赤松の顕彰碑は上田城跡にある。二の丸橋を渡って城跡に入り堀に突き当たって右手に進むと堀の屈曲した角の辺りに堀沿いの小道を隔てて屹立している。東郷平八郎元帥が「赤松小三郎君の碑」と揮毫している石碑である。
東郷は後年日露戦争の戦死者の慰霊のため上田を訪れた際赤松を回想し、この揮毫となったという。東郷は赤松事件について終生口を閉ざしていたというが、暗殺時赤松は36歳、桐野は28歳、そして東郷は19歳であった。東郷は生涯、その師の死について何を思っていたのであろうか。
顕彰碑のすぐそばに上田招魂社があり、その境内に「赤松小三郎記念館」もあるが、開館は4月から10月の土・日・祝日と記されていた。