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幕末維新時の水戸騒動

徳川御三家の一つである水戸藩は、水戸光圀が編纂を始めた『大日本史』や、会沢正志斎の書いた『新論』、あるいは水戸藩士のかかわった桜田門外の変や坂下門外の変などから、思想面でも行動面でも、明治維新に重要な役割を果たした藩のように思える。

しかし、実際の幕末維新期のこの藩は、陰惨・凄絶、そして最後は醜悪な派閥闘争に明け暮れた藩でしかなかった。闘争による犠牲者は多く、ために、明治期に政官財界で活躍すべき人材は払底した。闘争は、第8代藩主徳川斉脩が病死し、その弟の斉昭が藩主になった時に始まる。

この時、藩内保守派は第11代将軍家斉の子で御三卿の一つ清水家を継いでいた清水恒之丞を藩主に迎えようとし、一方、藩内の改革派は、斉昭を推した。両派は激しく争ったが、最後は、斉脩の遺言が見付かったこともあって、斉昭が1829年に第9代藩主となり、藩政改革を進めていくことになった。

しかしこの後、幕閣と結びついた保守派と斉昭を支持する改革派との間で、しばしば幕府の介入を受けながらの、すったもんだの党争が続いていくことになる。保守派は当然佐幕の立場をとり、改革派には攘夷を奉ずる藩士たちが集まった。

1858年8月、この時すでに斉昭は、藩政改革に行過ぎありとする幕府の干渉を受けて、藩主の地位を子の慶篤に譲っていたが、その水戸藩に幕政改革の勅諚、「戊午の密勅」、が下された。これは、この年4月に大老になった井伊直弼が日米修好通商条約の調印や将軍の継嗣問題で強権を振るったことに対し、それに不満な水戸藩の一部を含む攘夷派が同派の公卿に働きかけて手に入れたものである。

密勅では、井伊のやり方を批判し、以後は群議によって施策の実をあげるべしとしていた。井伊は当然激怒し、これを機に攘夷派を撲滅しようとしたことから、翌年にかけての安政の大獄となっていった。

水戸藩にも幕府から、勅諚を幕府に返すようにとの命令があるとともに、勅諚降下にかかわったとして斉昭は永蟄居、家老の安島帯刀に切腹、奥右筆頭取茅根伊予之介・京都留守居鵜飼吉左衛門・その子幸吉の3人に死罪が命じられた。しかし水戸藩にとってのこの時最大の問題は、この勅諚を巡って藩の攘夷派が大きく分裂したことであった。

過激派である激派は、勅諚を奉じて全国的な攘夷運動の先頭に立つことを主張し、慎重派である鎮派は、それによって引き起こされる政局の混乱を危惧し勅諚の返納を主張した。保守派と改革派との2派に鋭く分裂していた藩内は、保守派、攘夷鎮派、攘夷激派の3派に分かれて抗争することになり、藩政の混乱はさらにその度を加えた。

鎮派・激派の間では、当初会沢正志斎の主導する鎮派が優勢で、激派は勅諚の返納を力ずくで阻止すべく江戸への街道に屯集したりしていたが、それがならぬと藩を出、1860年の桜田門外の変、1861年の高輪東禅寺のイギリス公使館襲撃、1862年の坂下門外の変などを起こしていく。