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幕末維新時の水戸騒動

幕府では早くから水戸藩に筑波勢の取締りを命じていたが、6月に入ると近隣諸藩にも出兵を命じ、7月には若年寄田沼意尊の指揮下に追討軍を組織し筑波勢と戦った。

水戸藩でも保守派の家老市川弘美が藩校弘道館の諸生数百人と共に幕府軍に従った。

諸生というのは、江戸時代の各藩の藩校に共通して見られた身分であるが、その中身は藩によっていくらか違いがあったようである。

例えば、米沢藩の藩校興譲館の場合、『米沢市史』には「諸生の数20人、3年の間定詰の勤学生で、通学生の訓導も兼ね、待遇は年間1両」とある。自身も学びながら初学生を指導する助教員ということであろう。

これに対し、水戸藩弘道館の諸生は、多い時には千余人いたとあるから、生徒そのものであろう。

諸生の多くは鎮派であったと思われるが、天狗党の騒ぎが起こると、保守派の諸生が中心となって諸生たちを天狗討伐に結集させた。そこまでは理解できるのだが、以後も諸生の多くが保守派の走狗のようになって幕末維新期を過ごしていったことは、最も開明的であるはずの若者の姿として、理解に苦しむところである。

この間も藩内の派閥抗争は休みなく続いた。

水戸藩は、藩主が参勤交代することなく江戸に定住している江戸定府の藩であり、藩政の中心は江戸にあった。このため、抗争は、水戸にいる重臣たちが江戸の藩主に政権交代を求めるべく手勢を率いて南上して江戸詰めの重臣を攻撃し、あるいは江戸で政権を担当していた者が追われて水戸に戻り後日また江戸に上がる、といった形で行われた。