いま考えれば、人として生きることを少しでも考えるなら、ハイデッガーや法然、親鸞や日蓮を持ち出さなくとも、あるいは人生のゴールは誰にとっても「死」であることはわかるのかもしれない。

だが能天気な凡人の凡である私は母に

「死のときに後悔しない生き方を考えよ」

と言われていなければ、まったく何も考えることなく、楽しく浮かれて、あるいは辛い、辛いとこぼしながら、せっかくの人生を無駄に送ってしまったにちがいない。

死のときに人生を後悔せず、潔く「死」を受け入れられるようになるには「生きているいま」をよく生きなくてはならないのだろう。「いま」この一瞬を真剣に一生懸命に生きていかなければ必ず後悔は残るだろう。

そのときの母の言葉がいつの間にか私のなかで、だんだん大きな位置を占めるようになり、一瞬一瞬の「生き方」を大切にしなければいけないのだと思う心境を育ててくれたのはたしかである。

人間誰でも、子供時代や盛りの年代には、人生はいつまでも続いていくもののように感じている。だからこそ、春はお花見、秋には紅葉狩り……と、お酒や美味に浮かれて騒ぎ、だんだんと人生の持ち時間が少なくなっていることに気が付かない。

そうして、気が付いてみれば、自分の人生の意味はなんだったのか、なにをしたかったのか、あるいは、なにをしなければいけなかったのかも考えずに、大切な時間を浪費してしまったという結果になる。

物事の善悪も価値もろくすっぽわからなかった年代に、母が

「すべての遊びごとは死のことを習ってからよ」

「そのことこそが人生一番の大事」

と言ったことが、私の人生にとって大きな役割を果たしたことはたしかである。そのすごさは今になるとわかるのだ。