「あなたがこの教室にいたって話、たぶん、もう教室の外まで流れてると思う」
「正解」と佐希はつぶやいた。「人の口に戸は立てられない」
「まるで他人事ね」
桂衣子が、少しだけあきれたように言った。
「だれにとってもそうじゃないの?」
桂衣子は、躊躇なく「ちがうわ」と首を振る。
「少なくとも、わたしにとっては他人事なんかじゃない。金曜以来、この教室には、不安と猜疑心がカビみたいにはびこってる。一枚のカードに身を隠して、悪意という名の病原菌をこの教室にばらまいた人間がいる。こんな姑息なことをしておいて、そいつは今も学校のどこかで、なに食わぬ顔をして過ごしてる。わたしには、それがゆるせないの」
「梅雨どきだからカビとか病原菌とか、さすが、頭がいい人のたとえはちがうね」
「悪いけど、その手の安っぽい挑発には乗らない」
桂衣子は、鋭い目で佐希をにらんだ。
「わたしたちは、姑息なやり口に姑息な手段で対抗して、自分たちをおとしめようとは思わない。というより、こんな騒ぎは、さっさと終わらせたいの。だから、まわりくどい方法や卑怯な方法はとらない。確かめるべきことは、はっきりと確かめる。それが、あなたをここに連れてきた理由よ」
「ふうん……突然呼び出してさらし者にしたうえ、数十人で一人を取り囲んで責めたてるのが、このクラスの公平公正ってわけだね」
「好きなように言ってよ。大して手間はとらせないわ。あなたが協力してくれるならね。わたしたちが確かめたい事実は、そんなに多くない」
「いいわよ。わたしだって、こんなところに長居したくないもの」
「じゃあ、きくわ。木曜の五時ごろ、あなたがこの教室にいたっていうのは事実?」
「ええ、事実よ」
教室のあちこちから、どよめくような声があがる。桂衣子は、質問を続けた。
「じゃあ、これは、あなたのもの?」
佐希の前に差し出されたのは、ベージュ色のシュシュだった。
「どこでそれを?」
「あなたを中庭で見て、そのあと、これをひろったって人がいるの」
一瞬だけ、佐希の顔にとまどうような表情が浮かんだ。
「ああ、そうか。ドジったな……。ポケットに入れてたのに、いつどこで落としたのかと思ってたけど」
額にかかる髪をくしゃりとかき、佐希は、右の頬だけをわずかにあげた。
「じゃあ、あなたのものって認めるのね」
「ああ……」
佐希がうなずく。
「けっこうお気に入りだったから、返してもらえるとうれしいんだけど」
「なら、答えて。あなた……いったいここで、なにをしてたの」
佐希は、おもむろに顔を生徒たちへと向けた。その視線の先には、満田穂波がいた。
「あの机に用があった」
生徒たちのどよめきは、もはや抑えようのないものになっていた。大きく目を見開いた穂波が、震える声を絞り出した。
「なんで……」
「そんなの、決まってるじゃない」
佐希の顔に、酷薄な笑いが浮かぶ。
「復讐よ」
どよめきの海が、一瞬で凍りつく。ごくりとつばをのみ、桂衣子がかすれた声でたずねた。
「復讐……復讐って―」
佐希が、宙を見つめ、低くうめくようにつぶやく。
「そう……復讐なんだ。翼をもがれたイカロスの―」