鳥羽伏見戦争と旧幕派諸藩の討伐

1868年、慶応4年、1月3日の夕刻に京都の南郊赤池付近で勃発した旧幕府軍と薩長軍との戦闘は、一夜にして、西郷隆盛など薩長武力倒幕派が旧幕府や中間派に対して優位となる状況を生み出した。

赤池での衝突は薩摩軍の発砲から始まり、その砲音を耳にした伏見に拡がった。

戦闘は、始め薩摩・長州両藩の軍と旧幕軍との戦いであったが、後から土佐藩が薩長側に加わった。翌1月4日には、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に就任、錦旗を掲げて東寺に出陣した。

同じ4日、早くも西園寺公望が山陰道鎮撫総督に、翌5日には橋本実梁が東海道鎮撫総督に任命され、諸藩を薩長側に付け、あるいは旧幕側に付こうとする「不逞の」藩を討伐すべく、京都を出発して行った。

東山道、北陸道などにも順次鎮撫あるいは征討の使が任命派遣された。鳥羽伏見の戦闘は4日、5日も続いたが、慶喜が1月6日夜に大坂城を抜け出し、大坂湾に停泊中の軍艦開陽で江戸に逃げ帰ったことで、鳥羽伏見戦争は、西郷たちの勝利に終わった。

前京都守護職の会津藩主松平容保なども慶喜に従って同じ船で江戸に帰った。1月7日には、徳川慶喜追討令が発せられた。1月10日には、慶喜は官位を奪われ、旧幕領は朝廷の直轄地とされた。

薩長側は、旧幕派と目される藩に対し、藩主の官位剥奪、藩主の入京禁止、藩士の宮門出入りの禁止、討伐などの命令を次々と出し、これを「朝敵」として攻め立てた。

こうした動きを見ると、武力倒幕派が事前に相当綿密な謀議をしていたことが窺われる。

明治政府の編纂した戊辰戦争の記録である『復古記』の2月3日の項には、「徳川慶喜以下罪案」というのが次のように採録されている。

「徳川慶喜以下罪案

第一等 慶喜

第二等 会津、桑名

第三等 豫洲松山、姫路、備中松山

其主人滞坂人数差出、官軍ヘ発砲シ、剰ヘ慶喜一同東行セシ云云

第四等 宮津

其主人滞坂中、出先之家臣不心得旨ヲ以、官軍へ発砲シ、云云

第五等 大垣、高松

其主人在国中、滞坂元家来共、不心得ヲ以官軍ヘ発砲シ、云云

三等以上ハ其罪不軽ニ付追討、……四等、五等ハ大同小異……其主人上京、先鋒願出候得ハ被免、実効相顕之上、追テ何分御宥免之御所置被仰出候テハ如何哉、云云」