鳥羽伏見戦争まで

ところが翌1865年に入ると、長州藩では早くも恭順派が政権を追われた。

このため4月、幕府は改めて同藩を討伐しようと諸藩に第二次長州征伐の出兵を命じた。しかし、この頃には幕府の威令は大きく低下しており、薩摩藩を始めとして出兵に応じない藩が続出、翌1866年6月やっと開戦となるも、長州軍が各所で幕府側諸藩の軍を破る有様であった。

7月には将軍家茂が死に、8月には幕府は将軍の死去にかこつけて停戦せざるを得なくなった。幕府の威信はさらに大きく傷ついた。挙国一致で外敵にあたるべき困難な時に、幕府には一国をまとめていく能力のないことが露わになった。

一方で開国は次第により多くの者に受け入れられるようになり、1865年10月には、日米修好通商条約への孝明天皇の勅許も下りた。攘夷を巡っての政策闘争は、新たな権力の中心を求めての倒幕佐幕の権力闘争に変化し始めた。

1866年に入ると、1月には、この後倒幕の先頭に立つことになる薩摩・長州両藩の倒幕急進派の間で同盟関係が結ばれ、一方12月には、最後の将軍となる徳川慶喜が将軍職に就いた。同じ月、孝明天皇が亡くなった。

1867年になると、薩摩の西郷隆盛、長州の木戸孝允らによる倒幕の動きは、それを支持する岩倉具視らの公卿と結んで激しくなった。しかし当時の勢力関係としては、西郷ら倒幕派と幕府との間に、なお越前藩の松平慶永、土佐藩の山内豊信、尾張藩の徳川慶勝などの公武合体派有力諸公がいた。

幕府に代わる挙国一致体制として彼ら中間派の頭の中にあったのは、有力諸藩による連合政権であった。薩摩藩の島津久光も中間派であったが、有力藩の政権参加の試みが繰り返し幕府や慶喜によって拒絶されるに及び、この頃には武力による幕府威圧に傾いていく。またこの頃になると、雄藩連合を超えた中央集権的政府という考え方も有志たちの口の端に上るようになる。

1867年も半ばになると、西郷たち急進派の働き掛けにより薩摩藩は、長州藩と組んで武力により政権を奪うことに傾いた。しかしその直後土佐藩から薩摩藩に「将軍の政権返上」構想が持ち込まれたため、武力による政権奪取構想の実施は一時延期となった。その後も、西郷たちは長州藩に加えて安芸藩を巻き込んでの出兵計画を進めていく。

1867年10月3日、土佐藩は幕府に対し、政権の朝廷への返還を建白した。これを受けて14日には慶喜が朝廷に政権返還を上表、その翌日にはそれが勅許となった。政権を奪取しようにも奪取すべき相手がいなくなってしまった。

10月13日前後には薩摩藩と長州藩に「倒幕の密勅」が渡されていたが、空振りとなった。ただし、薩摩藩内にも出兵について異論がないわけではなかった中で、密勅は出兵への藩論の統一には有効であったようである。薩摩藩兵は11月13日に鹿児島を出発、11月23日には入京、長州藩兵は11月25日に三田尻を出発、11月29日には摂津に上陸、西宮に屯集した。