永瀬清子さんの自筆原稿を吉備路文学館へ寄贈
前日夕方、問い合わせていた吉備路文学館の館長さんからメールの返信をいただきました。
「今回の永瀬清子の書簡、原稿につきましてぜひ当館で収蔵させていただきたいと存じます。
現在、永瀬清子を含む詩人展を開催しているところです。
ご寄贈いただき次第、すぐにでも展示させていただければと存じます。」
とのこと。早速、夫と持参しました。2006(平成18)年8月26日のことです。
JR岡山駅から線路沿いに北へ、踏切のあるところを東へ。
このあたりは戦災にも遭わず、しっとりとした町並み。左手が吉備路文学館、右手奥の古い長屋が、昔あの柴田錬三郎が岡山二中(現・操山高校)へ通うときに下宿していた家だと以前聞きました。
ここは午前中が東行き、午後が西行きの変則的な一方通行です。
吉備路文学館は、もと江戸時代の池田家の藩士の屋敷だったそうで、中国銀行が企業メセナとして運営していると聞きます。建物の周りはその時代の日本庭園が残っていて素敵です。駐車スペースは8台分くらい。
永瀬清子さんのご自宅にも近く、永瀬さんはここの設立にも尽力されたそうです。
南向きの気持のよい応接室で館長の千田さんが持参した書簡を見てくださいました。永瀬さんと知り合ったいきさつや書簡のやり取りのいきさつをご説明しました。
すると、永瀬さんは、あの宮沢賢治の詩の価値を認め、世に出した功労者だと教えてくださいました。
……永瀬さん自身の回想記によると、1934(昭和9)年、宮沢賢治の没後に追悼会を開くことになり、弟の清六が岩手県の花巻から持参した賢治の原稿の詰まったトランクを開けた場に居合わせました。
その場に一緒にいた二十数人の中には高村光太郎、草野心平、巽聖歌らもいたそうです。清書された原稿の数々が取り出され、最後にトランクのポケットから取り出されたのが黒い表紙の小さな手帳でした。
書かれていたのが「雨ニモマケズ」の詩で「その時宮沢さんの心の芯棒がまっすぐに見えた感じがした」とあります。
「ご寄贈品受領書」と備前焼のビヤマグをお礼にいただきました。
館長さんのお話によると、いろんな著名人が「私の好きな庭」を紹介するというNHKの企画があったとき、銀閣寺だとか著名な庭が並ぶ中、女優の吉行和子さんが、ここの庭が好きだと言ってくださり、ロケ隊が東京から来たそうです。
そのカメラマンがなんと岡山朝日高校の卒業生で、ここのすぐ横を通って通学していたのだとか。泉水はすぐそばの西川の水をポンプで引き入れているそうです。