八月の下旬になると、一気に、十ページまでレッスンを施した。絵美先生の教え方に猜疑心も抱いたが、もう引き返せなかった。亜紀は、でき得るだけ練習に励んだ。レッスンを受けて練習をすれば上手くなっていく亜紀を、絵美先生は褒めることはしなかった。

むしろ、鞭で叩いた。スパルタ式レッスンだった。

それだけ亜紀の才能を認め、愛情があるから鞭で叩けた。亜紀は、めげずに絵美先生に三年以上も付いて来た。絵美先生はレッスンをするときは、熱血教師になるのであった。それに対して亜紀は、『発表会』で演奏することで応えていた。

今回の『発表会』に出場する前々日にレッスンを施すときも、ごまかして弾ける箇所と間違えないでしっかり奏でられる部分を、絵美先生は、亜紀の脳裏に叩き込んだ。弾けない箇所については、絵美先生はこうアドバイスした。

「ここの右手と左手が合わないところは、左のメロディをきちんと弾けば何とかごまかせて観衆には分からないから」

テンポとスラーの付け方についても指摘した。

「とにかく和音が続くところは速くならないで繋げて弾いて」

上手に教える絵美先生に納得がいって、亜紀は自信を付けた。

本番、亜紀は自分自身に言い聞かせた。

「楽しい音楽の時間にしよう」

こう自分自身に暗示をかけたことが功を奏して、亜紀は、本番で実力を発揮できた。

本番でピアノを十一分弾くためには、その背後に、かなりの努力の積み重ねが必要だった。

二人三脚で歩いてくれたのが絵美先生だった。ミュージックスクールの先生方も亜紀の演奏には一目置いていた。プレッシャーで朝午前四時に起きてしまうが、演奏には集中力を欠かさなかった。ドレス姿でティアラを付けた亜紀の恰好は華やかだった。恰好に負けない演奏を心がけた。

その心がけのおかげで、舞台に立っても、良い演奏を披露できた。亜紀の奏でるピアノの音には魅力があった。人を惹きつける何かを持っていた。占い師は、『音魂』と呼んだ。

演奏を終えた亜紀は、達成感に充たされていた。

「これで、佐藤絵美先生に良い報告ができるわ」

無事に弾き終えて溜飲が下がった。疲労がどっと出た。その後数日間は、くたくたに疲れた状態になり休養を要した。どれだけ神経を使ったかを痛感した。

ゲーテが言うには、「ピアノを弾くという趣味は、人間の最高の性質を表す」と。

だから、亜紀はどんなに多忙を極めてもピアノを習うことを止めなかった。ピアノを奏でるということが、亜紀の人格を形成していた。亜紀は、穏やかで優しく温厚な性格をしていた。

好きなピアノを弾けることが、亜紀の人間性にも影響していた。最も重要なのは、苦しんでそれでもなおピアノを奏でるという作業は、深い愛を創り出すことに結び付いている点であった。

亜紀は、豊潤な愛を持っていた。

高校を中退してから、苦労まみれの人生を歩いて来て、その代償として他者を思いやる愛が培われた。来月になると、五十五歳の誕生日を迎える。