「仕舞の稽古を見ていただけますか」
ある日、弥三郎は思い立って十郎に頼んだ。
「良いとも、何をやるのだい」
十郎はいつもの柔らかな笑顔でうなずいてくれた。弥三郎は、海人(あま)を、と言って自ら謡いながら舞い始めた。
『その時人々力を添へ、引き上げ給へと約束し、一つの利剣を抜き持つて、かの海底に飛び入れば』
『海人』の能は房前(ふさざき)大臣の伝説を基にしたものだ。大臣は卑しい海人の子であったが、海中に失われた面向不背(めんこうふはい)の玉という宝珠を取り戻すのと引き換えに我が子の出世を頼み、母が命をかけて竜宮へ玉取りに赴くという筋立てである。
弥三郎の祖父が得意とした金春の能なのだが、海人が竜宮へ辿り着いてからのところに、ある口伝(くでん)があった。祖父から教えられ、大事にしているものであったが、弥三郎はそれとは言わず、型で演じて見せようとしたのだ。
十郎ならばその意味を汲み取ってくれるだろうと思ったのである。
『かくて竜宮に至りて、宮中を見ればその高さ、三十丈の玉塔に、かの玉を込めおき』
仕舞が進み、いよいよ勘所に差し掛かるというそのとき、十郎が不意に声をかけた。
「そこまでにしよう」
気負いこんで仕掛けようとしていた弥三郎は、はぐらかされてたたらを踏んだような塩梅(あんばい)で、指しかけた扇の手を止め、十郎の方を振り返った。何かまずいところがあったのか、恐るおそる伺う弥三郎の目に映ったのは、十郎の少し困ったような表情であった。
途端に、弥三郎は自分がしくじったのだと思い、恥ずかしさで頭に血が上って後先を考えずにそこを離れた。
「し、失礼します」
何か言いたげに手を上げかけた十郎の仕草が目の端に残ったが、その意味を考える余裕などなかった。あたりに人気の無いところまで来て、自分の行ったことを振り返って、弥三郎は改めて顔から火の出るような恥ずかしさに包まれた。
自分ごときが、さも大事なことを教えるようなつもりで、つまらぬ芸を得々と演じてみせた、あの十郎の前で。何という身のほど知らずなことをしたのか。
このまま消えてなくなってしまいたい。そんな思いがぐるぐると頭の中を駆け巡り、弥三郎は裏庭の柿の木の下に立ちすくんだまま、背後から声をかけられるまで顔をうつむけていた。