伝教大師ゆかりの園原に水子地蔵?

廣拯院(こうじょういん)が信濃比叡(しなのひえい)となる平成17年(2005)から遡る平成14年(2002)、父が倒れた。

入院してから1か月が過ぎようとしていたある日、家の裏山にある伝教大師(でんぎょうだいし)像の下に石像が見える。近寄れば6尺くらいの石像と、2尺くらいの石仏が十数体設置されている。

これはなんだ?

しばらくして部落会(常会)の連絡がきた。出席すればクマダツネオが鎮座している。驚いた! 石仏群は水子地蔵だというのである。

「園原部落に昼神(ひるがみ)温泉組合から1000万円寄付があり、その金で千躰地蔵をつくる。これは信濃比叡の事業だ」

と言う。H温泉ホテルAの会長ヤマダユキト氏とツネオが信濃比叡の一環として進めていたのだ。園原の歴史に合わないものを。

そしてある日、章設計の社長である熊谷泰人(従兄弟)が電話をかけてきた。

「園原の家に石が飛び込んだ! 水子地蔵工事の石だと思う。壁を壊して、仏壇と戸棚がひっくり返っている。親父から電話があったが用があって引き返せない。申しわけないが見てほしい」

社長の父親(父の弟)は私の家の隣、そこに3尺はあろうかという石が飛び込んでいる。転がった跡をたどると水子地蔵に行きついた。叔父と話し、会社に戻って警察に電話を入れた。時間を見計らって再び現場に行くと、阿智交番から二人の巡査が来ていた。

動きが悪く、面倒くさそうなしぐさに腹が立つ。

「人的被害が出たわけじゃない」

とはなんたる言いぐさ。そんなことより

「今日の何時にどんな事故が起きた」

それだけはしっかり調べてもらえるよう頼んだ。私は事前に調べていた。水子地蔵十数体と賽(さい)の河原にある供養塔の一つにオカダカツミと刻まれていたことを。

南信州新聞の記者は、水子地蔵がなんの目的で誰が進めているのか、すべてを知っていた。阿智村の人で村の歴史も熟知している。だから、お願いした。記事にしますと言う。私なりに事の修正をしようと考えたのだ。

信濃比叡は父とヤマダ会長が始めたこと、園原の歴史に合わない水子地蔵をやめればよいことだ。父の想いが歪められる悔しさもある。

だが、ヤマダ会長とツネオにそんな考えは微塵(みじん)もない。記者は二つ返事だった。

「水子地蔵で園原部落が困惑しているのを、落石事故のことを、水子地蔵にオカダ村長の名前があることを全部記事にします。明日の夕刊に載せます」