第一章 古代の道・暗躍 史跡の里に垂れ込める暗雲
古より知られた信濃国園原
青い色が好きだ。青空を見上げれば気持ちがよい。東の空を見る。赤石から日が昇る。
振り返る山並みは神坂峠。日が沈む。
私が住む園原は日本の真ん中だという。地政学的に正しいかどうかよりも、歴史的な意味合いが強いのだろう。信濃国園原、現在は長野県下伊那郡阿智村智里園原。「日本一の星空」と言えば、ピンとくると思う。そう、日本の真ん中で、日本一の星空が広がるところ。そこが園原である。
園原は「そ・の・はら」である。「祖・野・原」と書けばわかりやすい。その昔、京の都の客女姫が夢のお告げに導かれ、「その原」の炭焼き吉次に嫁いできたという。長者屋敷と呼ばれた、その場所に私の家は代々続いてきた。
戒名で系譜をたどれば、鎌倉時代まで遡れるが、気になるのは家系図より古の炭焼き吉次までの父系である。24代が連なる父系の墓石は、中央道恵那山トンネルの残土によって、地中深く埋もれてしまった。
園原の名は『源氏物語』第二帖「箒木」に記され、新古今和歌集に収められている坂上是則の「園原や 伏せ屋に生ふる ははきぎの ありとは見えて 逢はぬ君かな」に詠まれたように、歌枕の地として知られる。近づけば消えるという伝承の「園原の帚木」を光源氏の思い人である空蝉にたとえた紫式部によって、園原は古くから京の都に知られた。
さらに遡れば、『万葉集』に神人部子忍男の歌、「ちはやふる 神の御坂に 幣奉り 斎ふ命は 母父がため」がある。
この歌は信濃から筑紫(福岡県)に向かう防人が詠んだ今生の別れ歌といわれる。神の御坂、すなわち古代から中世にかけて都と東国を結ぶ要路であった東山道の最難所神坂峠を越えて旅立ったのである。