観光事業が不正の温床となった

クマダツネオが無投票で議員となったのは、オカダ新村長就任2年後の平成12年(2000)。

それから2年後、父は倒れた。腎(じん)機能不全。再起は無理だった。私を敵視していたツネオは、私が父の跡を継ぎ、自分のライバルとなるのではないかと警戒し始めた。

私自身は、村政にかかわる気は毛頭なかった。それでもオカダをはじめ、マサオ、ツネオ、そして叔父のシブサワまでもが私を煙たがった。熊谷典章の息子であり、後ろめたい不都合な事実を知り、何かとうるさい章設計の熊谷章文を黙らせたがったのである。

平成17年(2005)4月16日、廣拯院に信濃比叡本堂(根本中堂(こんぽんちゅうどう))が建立(こんりゅう)され、10月23日、比叡山延暦寺に最澄の時代から燃え続ける「不滅の法灯」が分灯された。

父の夢であった「信濃比叡」は叶(かな)った。その3年後の平成20年(2008)3月15日、父は他界した。父が不正の数々を目(ま)の当たりにすることなく世を去ったのは不幸中の幸いと思える。

四十九日の法要を終え、父の兄弟とその家族が残ってくれた。歩けない、話せない、笑えない難病で葬式にも出られなかった母が、「章(あき)やあ」と笑顔を見せ、手すりにつかまりながらその輪に加わった。

父の奇跡かと涙がにじんだ。叔父の話が始まった。

「弟だから、兄貴を褒(ほ)めるのはここしかない。誰にでも好かれ、頭がよくて頭(ず)が低い。何をやるにも人を先に出し、控えている。もめごとも相手を責めるのではなく、事の始末だけを考えていた。自分の兄貴だけど頭が下がる。自分の誇りだった。阿智農協組合長の投票で圧倒したが、『自分はまだ若い』と、いくつか上の相手に譲って……」

そこには私が知らない父がいた。オカダカツミは在職当時、意のままになる共産党員を村役場や村議会の要所に配して村政を牛耳りつつ、西の三悪人とともに園原を中心とした観光事業を利用して不正の数々を行い私腹を肥やした。

その不正、いや行政犯罪の温床となったのが、日本一の星空が見えるスキー場「ヘブンスそのはら」であり、リフレッシュふるさと推進モデル事業で建設された諸施設だった。

これは悪事の一端にすぎない。脱税、不正受給、違法契約、詐欺、横領、土地搾取……、彼らの不正と犯罪は多くの者を巻き込んで複雑に絡み合っていた。