昭和の湯煙

今、僕が入浴しているのは「町の湯」と呼ばれる施設である。俵山温泉の原点は、この「町の湯」の源泉にあり、古くから保養泉として多くの湯治客が訪れているという。

僕を囲むように湯に浸かっている切り傷の男たちの手術による縫合痕が痛々しい。胸から腹、背中から脇腹にかけて幾筋もの縫合痕が走り、地下鉄の路線図のようになっている人もいる。

僕にも縫合痕はあるにはあるのだ。額の右側の髪の生え際に三針、眉間右側に三針の合計六針。額の傷は、五歳の時に道で転んだ拍子に溝の縁で切ったもの。

眉間の傷は、三年前、昼寝から起きて、暗い廊下をトイレへ急いでいた時に半開きになった書庫の扉に気付かず、額をぶつけ切ったのだ。顔中血だらけにしてリビングに入ってきた僕を見た次男はどれだけ寝相が悪いのだと思ったという。

そんな僕の縫合痕は、この湯に浸かっている人たちの縫合痕から見れば、四捨五入されてゼロになってしまう。いずれも大きな手術を潜り抜け、命を繋いできた人たちなのだ。

全身脱力でほぼ仰臥状態で湯に浮いている人、膝を抱え天井を仰ぎ瞑目する人、机にうつ伏して寝るように風呂の縁で両腕に頭を乗せている人もいる。

いろいろな格好で入浴しているが、皆が健康を願い、求めて、真摯な祈りを捧げているように見える。果たして、自分程度で、この温泉を利用してよかったのかと居心地の悪さを感じる。

ところで、肝心の湯であるが、この湯から、硫黄臭はしない。湯の中で、肌をさすってみるとキシキシ感がある。湯温は、熱からず、ぬるからず。気持ちの良い湯だ。

入浴の効果を高めるには、十五~二十分間浸かるのがベストという。この湯温なら湯あたりすることなく、のんびりと浸かっていられる。

気持ち良さのために、眠ってしまっているのではと心配になる人がいる。呼吸はしているようなので、永遠の眠りではないとホッと胸を撫で下ろす。

町の湯を出ると正午を過ぎており、昼食を摂ることにした。俵山温泉には、町の湯の他に白猿の湯という温泉施設がある。白猿の湯は平成十六年に改築された、俵山温泉では最も新しい施設である。

その施設の一階は土産物店、足湯、ペット湯となっている。ペット湯まであるのか。料金が二千円、ただし大型犬は五百円の割増しとなる。人間よりも料金が倍以上高いのにびっくり。

二階は浴場とレストランになっており、そのレストランで昼食を摂ることに。事前の調べでは、長州地鶏を使った中華そば風ラーメンが人気ナンバー1とのことなので、次男にも勧めて大盛で注文する。なかなか出てこない。

十分くらい後から来た、六人の地元民と思しきグループの注文した料理が早く出ている。二十分経過、ラーメンにどうしてこんなに時間がかかるのか。不安。そういえば、周りの客は誰もラーメンを食べていない。