千葉秀甫

千葉秀甫は一九一二年(大正元年)の末に欧州状勢取材のため渡欧している。

秀甫の在欧消息を克明に記したドキュメンタリーに生田葵(一八七六〜一九四五)の「三浦環女史の愛人」がある。(45)

婦人公論に掲載されたもので、「ゼネバで行路病者として果てた狂恋の彼」のサブタイトルのもとに秀甫の狂気と熱情を同情的に描いている。

秀甫はカイヨー事件の公判取材のためパリに赴くとして生田と別れ、以後消息を絶った。(46)

その後、彼の死はロンドンでマダム花子(太田ひさ一八六九〜一九四五)からもたらされ、それによるとスイス・ジュネーブの市立病院で舌癌のため死去し、引取人が無いまま共同墓地に埋葬されたという。(47)

一九一四年も末のことであり、享年は四十四、五歳と推定される。(48)