「蝶々夫人」のプリマドンナ三浦環。
最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。
本連載では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の生涯を、音楽専門家が解説していきます。
音楽評論家・田辺久之氏の著書『音楽のジャポニズム!~考証・三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ三浦環を徹底解説! 本記事では三浦環の音楽書『世界のオペラ』のゴースト・ライターである千葉秀甫、そして三浦環のよき理解者であった三浦政太郎について解説していきます。
千葉秀甫
千葉秀甫は一九一二年(大正元年)の末に欧州状勢取材のため渡欧している。
秀甫の在欧消息を克明に記したドキュメンタリーに生田葵(一八七六〜一九四五)の「三浦環女史の愛人」がある。(45)
婦人公論に掲載されたもので、「ゼネバで行路病者として果てた狂恋の彼」のサブタイトルのもとに秀甫の狂気と熱情を同情的に描いている。
秀甫はカイヨー事件の公判取材のためパリに赴くとして生田と別れ、以後消息を絶った。(46)
その後、彼の死はロンドンでマダム花子(太田ひさ一八六九〜一九四五)からもたらされ、それによるとスイス・ジュネーブの市立病院で舌癌のため死去し、引取人が無いまま共同墓地に埋葬されたという。(47)
一九一四年も末のことであり、享年は四十四、五歳と推定される。(48)
(45)生田葵「三浦環女史の愛人─ゼネバで行路病者として果てた狂恋の彼」(婦人公論第十五巻第二号)昭和五年一月三三~五○ページ
(46)一九一四年三月十六日にフランス蔵相ジョセフ・カイヨー(一八六三〜一九四四)の夫人が、夫カイヨーの攻撃をし退陣キャンペーンを展開した「フィガロ」紙の編集長G・カルメットに会見を求め口論の末射殺した事件。
(47)澤田助太郎著『ロダンと花子』一一三〜一一四ページ、一三一ページ(中日出版本社平成六年九月刊)島崎藤村が在仏中、女優花子一座とその活動写真撮影の脚本を書いた千葉秋圃に逢ったこと。また花子がベルリンの駅に一年前に預けたロダンの作品入りトランクが既に処分されてしまったというので千葉秀甫に掛け合って買ういきさつが記されている。
(48)前掲誌注(45)四七ページ一九一四年七月べルリンに到着した三浦夫妻の住居を、秀甫が生田葵に執拗に尋ねた時の状況を「四十五、六歳の人の為すべき挙動かと思へもした……」と記しており、これが彼の年齢を知る唯一の手がかりである。なお武者小路公共は前掲書注(41)二一四ページで秀甫(本文では千葉秀甫をC先生と表記)はスイス・べルンで死去としている。
(49)窪川雄介、福島敬一『茶の大事典』三八五〜三八六ページ(静岡お茶の大事典刊行会平成三年刊)〈三浦政太郎食品化学者・医学博士の項〉および三浦孝一氏(平成六年九月六日)取材による。