彼が十八歳で一高に入学した明治三十年に柴田環は虎の門の東京女学館に入学し、一高三年の時、環は東京音楽学校に入学して通学の途次自転車美人として世間の注目するところであった。
政太郎と彼女は遠縁の間柄にあり、彼は上京後桜川町の柴田熊太郎の家を訪ねている。熊太郎の家は書生の出入りも多く屋敷も広く賑やかであったので政太郎も自然に同郷の柴田家の人達と親しくなった。
政太郎が年頃の環を自身の相手として意識したのは一高の頃だったようだ。環の語るところによると彼女と藤井善一との内祝言を知り悲観のあまり自殺を考えたという。
当時は一高生藤村操の日光華厳の滝での投身自殺(明治三十六年五月二十三日)の事件に代表されるように青年たちの厭世思想の流行は哲学青年の特権のような趣を呈した。
政太郎は生来ひよわな体質でその性格は内向的であった。彼のエリート校での抜群の成績は常に両親や親戚のもとで話題となった。
彼の失恋は一層彼を陰気にしたが、青年特有の気むずかしさとて周囲の者は別に意に介さなかった。環はこの無口な青年の気持の中に自分への恋心があろうなどと思いもしなかった。
環と藤井との離婚を知ったのは政太郎が東京帝国大学を卒業し、同大学付属医院の副手に就任して二年目の春であった。