まえがき
二十世紀は世界各国で、学術・芸術のさまざまな分野に優れた女性を輩出した時代であるが、本書は国際的プリマドンナとして世紀前半の二十年間にわたり世界の檜舞台で活躍した日本の女性、三浦環の生涯に焦点をあてその人間像と楽歴について論考したものである。
三浦環は海外にあっても常に純粋な日本人気質を持ち続け、それを国際社会の慣行と巧みに調和させつつ生き、日本の風土と文化への愛を忘れることなく国際人としての生涯を全うした。
近時日本人演奏家の海外での活躍はめざましいものがあるが、外国の権威ある音楽辞典に永らくその名をとどめ得る演奏家は、未だ多しとしない。三浦環は日本のオペラ歌手として安定した高い評価を得ている。
しかし、生誕百三十年、没後七十年の今日、わが国において三浦環にかかわる調査研究はその数もごく限られており、正確な考証に基づいた伝記、精査された演奏年譜、系統的な資料解題や書誌には未だ見るべきものがないのが現状である。このため各種百科事典、人名辞典等にあってもその記述は画一化し、細部の誤りが散見する。
本論文は三浦環に関する内外書籍、新聞、雑誌、プログラム等の記事を可能な限り収集し、これを基礎として先ず詳細な年譜を作成し、彼女の自伝と対照しながらその生涯と演奏、教育に関する楽歴を実証的に描き出そうとしたものである。第一部は人物と事跡にわたる記述、第二部は演奏年譜と文献書誌等を以て構成した。
伝記の記述には、被伝者の出生と死去にかかわる事項の確認が必須の前提であるから、まず最初に今まで辞典等に区々記述されていた環の出世地について判明した調査の結果を記した。三浦環には著作が存在するが代表的な三冊の著作成立の経緯についても解題した。
音楽学校時代・帝劇時代の日本オペラの先駆者としての活躍、渡欧後ロンドンでの《マダム・バタフライ》主役としての成功をはじめ、アメリカ公演、各国巡演での環の生涯にわたる演奏歴を精査し、レコード等録音ソースと併せてそのレパートリーを明確にした。
特に西洋において外国人作曲家の想像力からうみ出された音楽上のジャポニズム、彼等の日本の風土や風俗習慣への思い入れを、環がどのように舞台で表現し、自らの日本人としての生身のリアリティと、作品の虚構との間をどのように調和させていったか、その間の機微をオペラ《蝶々夫人》《イリス》《お菊さん》《浪子さん》等の演奏実績を分析することを通じて考究しようと試みた。
なかでもわが国に未だ紹介されていないフランケッティ作曲、環による世界初演のオペラ《浪子さん》については詳記した。また、世界の著名な演奏家との交流から得た演奏家論について環の独自の見解を、彼女の自伝を参考に記述した。
第一部のまとめとして、環没後の評価を遺響として論考し、第二部は演奏年譜と文献を対照させる書誌年譜の形式を採用した。
本書の書名『考証三浦環』は義弟の小堀桂一郎氏(東京大学名誉教授)のご教示によった。本書が書名の意を著わし得られたならば望外の喜びである。