第一部 生涯と事蹟
第一章 生いたち
二 生誕
ここで環の出生を考察しておきたい。明治十七年(一八八四年)といえば、明治の文明開化は時流にのり、婦人の洋装化もようやく地について前年末に開館した山下門外の鹿鳴館は、ルネッサンス様式の迎賓館として仮装舞踏会に明け暮れていた。
執筆者居住地の静岡県立中央図書館に、明治五年(一八七二年)二月以降の毎日新聞マイクロフィルムが所蔵されている。私は環の出生日である明治十七年二月二十二日前後の雰囲気を新聞の生々しさを通じて感受したいと思い立った。
同館のマイクロフィルムをゆっくり廻しながら、この頃の時の流れをリーダーに映し出される新聞紙上に追った。
後出の吉本明光編『お蝶夫人─三浦環遺稿』中の一節に「明治十七年二月二十二日は大雪でとても寒かったそうですが、この日に私は、今の帝劇の近所にあった二階建のお家で生れました」とあるのが、出生事項の唯一の手掛りである。
私は新聞の気象報告で、環出生日の大雪を裏付けたいと考えた。当時の気象観測は内務省の地理局が所管し、明治十六年の二月十六日から一日一回各地の六時の気象を東京気象台あて通報することになっていた。この気象報告が翌日の新聞に掲載されるのである。
明治十七年二月二十二日午前六時
低気圧ノ中心ハ浜松ノ近傍ニアリテ微ニ沈下セリ而シテ静穏或ハ北乃至東風吹キ本地ノ中央ノ全部ハ温暖陰
欝或ハ雨降リ南西及北部ニ於テハ快晴ノ天気ニシテ寒冷ナリ
とあり、東京北の風二メートルで雨、気温二度となっている。同様、全国二十三測候所の気温、風向、風速、天気、気圧、降水量が報告されている。
この日の正午近く環は出生した。生憎のことに、二十四日は日曜休載となり前日の気象報告が不明である。私は二月二十一日(金)から二十四日(日)の天気報告を白図上に落とし、三枚の天気図を作ったのであるが、肝心の二十三日欠図で困惑した。