第一部 生涯と事蹟

第一章 生いたち

三 出生地

(一)

伝記の記述は、被伝者の出生と死去事項を確認する作業が前提となる。出生において、いつ、どこで、誰を親として生まれたかが彼を語る上での必須条件である。三浦環生誕百三十年余を経た今日、かつて国際的に活躍したプリマドンナの出生地を文献上に確定し得ないのは不思議なことである。(※5)

(二)

瀬戸内晴美(一九二二~)は三浦環の伝記小說『お蝶夫人』で、「東京芝今入町に公証役場を開く柴田孟甫と妻登波の間に女の子が生まれた」とした。(※6)

柴田孟甫は明治十四年(一八八一)、三十八歲の折四歲年下の妻登波とともに静岡県から上京し、芝の入舟町に五つ間の売家を百円で購入し住んだと環の遺稿は伝えているが、この入舟町なる町名は当時から芝には存在しない。(※7)

この誤りはそのまま音楽之友社の音楽文庫『三浦環のお蝶夫人』その他に再録されている。(※8)

環が二十年に及ぶ外国での演奏活動に終止符を打ち、昭和十年に帰国して以降、口述筆記等による彼女の伝記が各種の雑誌に掲載されたが、その中で「婦人公論」が三回にわたり連載した「お蝶夫人自叙伝」は最も分量のある伝記であり、これには芝今入町の記述がみられる。(※9)(※10)

瀬戸内や三枝和子(一九二九~)等は遺稿やこの自叙伝を比較対照し芝今入町を採用した。(※11)

環が昭和二十二年(一九四七)五月に死去した時、各新聞の訃報はいずれも東京芝に生まれると記した。百科事典や人名事典の多くは環の出生地を東京とのみ記載しているが、平凡社の『世界大百科事典』は堀内敬三(一八九七〜一九八三)の執筆になる「三浦環」の項目で、「公証人柴田孟甫の長女として東京芝に生まれる」としている。(※12)

また東京芸術大学の保存になる旧教員履歴綴の藤井環の欄には「旧姓柴田、山口県士族明治十七年二月廿二日東京市麹町区有楽町ニ於テ生ル」と事務官による記入がある。(*2)

環の年譜を最初に発表したのは遺稿の編者吉本明光(一八九九~一九六○)である。「音楽芸術」が“三浦環追悼”を昭和二十一年九月に特輯した折、三浦環年譜として作成したもので、そのあとがきによると「この年譜は三浦環さんの記憶を土台に作成したもので何等正確な資料によっていない」と付記している。(※13)

この年表を基にした音楽文庫では「明治十七年(一八八四)二月二十二日東京丸の内に生る。(※14)本籍は東京市芝区西久保桜川町七番地」として出生地と本籍地を区別した記述がなされた。