三浦政太郎

三浦政太郎は音楽ひと筋に生きる環のよき理解者であったが、世間からは環のわがままに屈した気の毒な夫として同情され、また冷ややかな眼で見られることも多かった。

環には朝夕夫に傅くといった日常は、別れた夫藤井善一のばあいもなかったし、政太郎とて同じことであった。

しかし、環の政太郎への敬意の念は生涯変わらず彼女自身三浦姓をこよなく愛した。

三浦政太郎は明治十二年(一八七九)の生まれであるから環より五歳年上である。政太郎の出生地は静岡県佐野郡曽我村原川二○番地で、現在は掛川市となり、国道一号線の袋井市境付近に位置する。

三浦家は代々掛川藩の御用商人として油問屋を営む家系であったが、版籍奉還に伴い御用金が回収不能となり家計は窮乏した。

政太郎の父藤平は同県榛原郡勝田村(現牧之原市)の仲田平四郎の長男で明治二年(一八六九)二月に三浦藤重の二女せつと結婚して同家に入籍した人で、逼迫した同家の再建をはかった。

政太郎は父藤平三十四歳、母せつ三十歳の時長男として誕生したがすでに長女てい、二女さいの二人の姉がおり、弟には二男猛、三男唯一がいる。(49)

当時の心ある青年が志を抱いて上京したように向学心に燃える政太郎も十二歳で単身上京し親戚に寄宿する。父藤平は長男の成功を夢みて田畑の一部を処分し、府立一中、一高に通わせた。

明治三十四年七月に第一高等学校三部を卒業したが、幼少の頃から智力に優れた彼は常に首席を通した。一高時代の彼の学友を通して三浦環が多くの機会に有形無形の便宜を得たことも、政太郎の信望の篤さを示すものである。