彼は下谷区中清水町(現台東区)の環と藤井の新居へ立寄ることもあり、訝る藤井に同居の母登波は「あれは従兄ですよ」と紹介していた。温厚な藤井は政太郎より三つ年上であり同じ医学を志す者として彼を優遇する。
藤井と環の離婚が決まると政太郎は環に手紙を書き、エリート青年特有な筆致で意中の思いを書き記した。
「あゝ玉杯」の楠正一の手紙も思い出されるが、政太郎の手紙は、環の回想によると薄気味悪いほどのもので、彼がこんなにも自分のことを思っていてくれたと思うと、びっくりしたり気の毒になったり複雑な気持になったという。
男心にあたりさわりのないよう断りを入れるテクニックは環の身についた自然の才能であったから、それ相応の返事を出しておいた。
登波と環の女世帯にその後政太郎が足を運ぶようになるが、離婚を新聞で書きたてられたあとでもあり、環の世評はあまり芳しいものではなく、また新聞記者も未だ環の一挙一動を興味深く監視していた。
※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
(45)生田葵「三浦環女史の愛人─ゼネバで行路病者として果てた狂恋の彼」(婦人公論第十五巻第二号)昭和五年一月三三~五○ページ
(46)一九一四年三月十六日にフランス蔵相ジョセフ・カイヨー(一八六三〜一九四四)の夫人が、夫カイヨーの攻撃をし退陣キャンペーンを展開した「フィガロ」紙の編集長G・カルメットに会見を求め口論の末射殺した事件。
(47)澤田助太郎著『ロダンと花子』一一三〜一一四ページ、一三一ページ(中日出版本社平成六年九月刊)島崎藤村が在仏中、女優花子一座とその活動写真撮影の脚本を書いた千葉秋圃に逢ったこと。また花子がベルリンの駅に一年前に預けたロダンの作品入りトランクが既に処分されてしまったというので千葉秀甫に掛け合って買ういきさつが記されている。
(48)前掲誌注(45)四七ページ一九一四年七月べルリンに到着した三浦夫妻の住居を、秀甫が生田葵に執拗に尋ねた時の状況を「四十五、六歳の人の為すべき挙動かと思へもした……」と記しており、これが彼の年齢を知る唯一の手がかりである。なお武者小路公共は前掲書注(41)二一四ページで秀甫(本文では千葉秀甫をC先生と表記)はスイス・べルンで死去としている。
(49)窪川雄介、福島敬一『茶の大事典』三八五〜三八六ページ(静岡お茶の大事典刊行会平成三年刊)〈三浦政太郎食品化学者・医学博士の項〉および三浦孝一氏(平成六年九月六日)取材による。