しかし警察は諦めきれない両親を慮って結論を先延ばしにしたのだが、それから三カ月が経過して、一九七〇年も、もはや終わろうとしていた。二人もやっと娘の死を認めざるを得なかった。長い話になってしまったがね、ユーラは七歳。本当に痛ましい事件だった」
「私よりもユーラさんの方が可愛そうな一生だったのね」
エリザベスが嘆いた。
「するとフェラーラ夫妻は、四年の間にお嬢さんを二人とも失ってしまったのですね?」
宗像も複雑な思いで耳を傾けていた。
「このように絶望的で重苦しい気持ちが続く中、一九七一年が明けた。事件の傷跡はたとえようもなく重く深かった。
それ以来、ピエトロは毎日酒を煽り、あの忌まわしい事件を忘れようとしていたが、絵はただの一枚も描かなかった。私は気を紛らわすため、少しは筆を握った方が良いと助言したが無駄だった。一度もキャンバスに向かわず、強い酒に浸りきる日々が続いたようだ。
そんなある日のこと、ピエトロが私の店に現れてこう言った。
『エステさん、長い間お世話になりました。実は来週、アンナの故国のポルトガルに移住することになりましてね、今日はお別れにきました』
『なぜだ? ここで、しばらくゆっくり過ごすのが一番ではないか』
何度もそう言ったのだが、ピエトロは聞き入れず、決心を翻すことはなかった。
『ポルトという街にしばらく住む。そこで全てを忘れて出直しをするつもりだ』
彼は一方的にそう喋って帰っていった。私は別れ際に、とりあえずはしようがない。しかし落ち着き先が決まったら連絡しろと言った。回復したらまたフィレンツェに戻ればいいんだから」
「それで、結局二人でポルトへ?」
エリザベスが訊ねた。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商