第三章 逢魔が時:始まっていた戦い
地図下を流れているのが漢江になります。
漢江に日本が架けた漢江鉄橋を渡った、京城の最初の駅が龍山駅になり、車両基地も兼ねていた大きな施設でした。そのため、列車の往来を妨げずに作業ができるため、日本から入った機材や資材などはここで降ろされ、京城(ソウル)の近代化に使われました。
近代国家韓国に必要な教育機関として、大正期に開校した東京帝国大学を模して造られた京城帝国大学(現ソウル大学)などの教育施設に必要で、海外から買い付けてきた研究用設備、洋書類も40キロほど離れた仁川港から陸揚げされ、鉄道にてここまで運ばれたあとに納められました。
漢江に近い土地は、終始氾濫を警戒しなければならない場所でもあり、龍の見立ての通り古くから、土地の等級では下(尻尾)に位置していました。
そういうこともあり、この一帯が、明治期に入植した招かれざる客の日本人用に、当時の韓国から割り当てられたのです。それが次第に、日本側の治水工事や整地によって、日本軍施設だけではなく、鉄道関連施設や各種民間事務所、住宅が広がる日本人街になっていったのです。
路面電車やバス、タクシー事業者も営業を行い、朝鮮総督府庁舎や京城大学、公的施設で働く人もこの一帯に多く住んでいました。
また、龍山駅が軍司令部に近いことから、日本から兵役で上がってきた人たちが出頭、部隊に配属される場所であり、これから兵役に就く緊張感にあふれた顔つきの一般人と、朝鮮半島だけでなく満州方面からも鉄道で戻った、無事役目を終えて晴れがましく故郷に帰る、元日本兵の交差する場所でもありました。
大東亜戦争(太平洋戦争)開始から戦況が悪化、本土同様配給制になるまでは、京城駅周辺の南大門から広がる繁華街の、京城三越や三仲井などのデパートや明治座、京城宝塚劇場、洋食店、甘味処で、厳しかった軍隊生活からの開放感から、映画や芝居を観たり、食事を楽しんでから日本本土へと戻る人も多かったそうです。
そのため、龍山一帯が最も併合時代の朝鮮半島を知る日本人がいた場所と言っても過言ではないのです。地図の中央●が元町小学校の場所になり、そこから右に向かって龍山小、第二高女、三坂小、龍山中となります。