龍山小から右側、第二高女から下部分が朝鮮軍司令部を含む軍施設となっていました。この地図は昭和9年(1934年)のものですので、上のほうには完成した京城駅、その右の南山には朝鮮神宮が姿を現しています。
学校沿革史中、大正7年(1918年)12月5日の深夜に、学校が朝鮮人の放火(犯人が捕まったかは定かではなく疑念として話されていたものです)により、突然大火に包まれた記録になります。
午前1時20分ころに起きた火災は、4時間近く学校を焼きました。そして、この火災で鈴木志津衛校長が、奉安所前にて殉職するという一大事件となったのです。
先の地図にあるように、この学校は日本人住宅街にあり、軍の施設にほど近く、警備の眼が行届いているはずの場所でした。それにもかかわらず放火をされ、奉安所が焼け落ちたのです。
奉安所とは、大東亜戦争(太平洋戦争)終了まで、学校施設において最も重要な管理が義務付けられていた施設であり、そのなかには、教育勅語と御真影が収められていました。
記録にある通り、不幸中の幸いで、それらの品は当直の先生によって無事救出されて、暗い夜道をひた走り役所に返されていたのですが、鈴木校長は深夜のこともあり、凶報を聞きつけ学校に駆け付けた際に入れ違いになり、まだ残っていると思われた教育勅語と御真影を救出しようと奮闘するなかで亡くなりました。
鈴木校長は、大正6年(1917年)7月6日に京城鍾路公立尋常高等小学校校長から転任され、元町小にはまだなかった校歌作成に尽力された教育熱心な方でした。