8月15日 玉音放送
「重大放送がこのあと入るので、放送終了ののち列車は走らせる」
8月15日、疎開準備のため、早朝から祖母と兄と三人で、リヤカーに積んできた荷物を貨車に載せたところで、鉄道職員からこう告げられたそうです。
そのため、一旦家へ戻りました。当時、伯母たちは挺身活動で軍服の縫製工場に行っており、当面は、祖母と父たち小学生と妹だけが、祖父や伯母たちとわかれて疎開する予定でした。
挺身活動は、女子の場合は特別に女子挺身隊と呼ばれますが、戦況悪化で人手の足りない工場や鉱山、戦時体制を支えた各公的機関の手伝いなどを行ったものです。
父たち小学生のなかにも(父は飛行帽のあご紐づくりをさせられたそうです)割り当てが回った人もいるもので、一部の学者が言いわけに使っている「慰安婦と女子挺身隊が、ある時期混同されていた」というものは、当時を知る人間にとっては、心底不愉快なものとして話されていました。
戦後集まっていた自分たちに、話を聴きに来ていれば間違えようがないからです。早めの昼を済ませたあと、自宅前の通りに、臨時に設けられた鉱石ラジオの前に、父だけがまだ家事があった祖母の代わりに聴きに出ました。
周囲の大人たちに混ざって、これから始まる朝鮮半島での戦争について、覚悟を強いる放送なのだろうと、流れだした放送に聴き耳を立てたそのとき、「天皇陛下だ!」一瞬周囲がざわめいたあと、嘘のように静まり返り、放送は続きました。
ノイズが激しく、また難しい言葉遣いのために、小学生の父には話の内容がわからず、放送が終わると、隣に住むおじさんに尋ねて、やっと、日本が負けたことを昭和天皇自らの肉声で告げた、「玉音放送」ということを理解したそうです。
急いで家に戻り、再び祖母と龍山駅へ向かい、貨物列車から荷物を降ろし帰宅したころには、挺身隊の工場から戻った伯母たちも合流、無事全員家に揃ったのでした。
朝鮮半島の日本人の悲劇
昭和天皇の玉音放送を、リアルタイムで聴くことができ、状況の変化を知り、疎開を中止して家に帰った父たちは幸運でした。
北鮮域側で暮らしていた人たちや、疎開のためにすでにそのエリアに入っていた人たちは、そのころには共産主義国のソビエト軍に襲われ殺されだしていたのです。
先に「三・一独立運動」の際に紹介した咸鏡北道羅南方面や満州方面から同時期(対日宣戦布告前の、8月6日には侵攻してきていたと、恐怖の逃避行を体験を交えて話す人もいました)に侵攻してきたソビエト軍は、内鮮人の区別なく女性に乱暴を働いたり、民家に押し入り、家人を殺すと金品を強奪、さらに、転がる死体から懐中時計や指輪を外すと、笑みを浮かべながら自分のポケットにしまいこんだりと、末端の兵士は蛮族のような振る舞いだったそうです。