必死に抵抗していた日本の国境守備部隊も、京城側への配置転換で十分な戦力がなかったため、早期に後退を始めていました。南鮮側の京城で、

「ソビエト軍すでに襲来、元山にソビエト軍が迫っている、平壌は連絡がつかない、敵の手に落ちたらしい」

という形で、情報が一般人に流れたのは、玉音放送により軍事機密情報が解除されてからでした。

寝耳に水の凶報に、疎開させた家族の安否確認をしなくてはなりませんでしたが、当時は、官庁や企業でも、代表電話という形で設置されているくらいで、電話の数も少なく家庭にあることなどまれでした。

また、疎開先は地方の寺院だったり、朝鮮の古い書堂という教育施設などを借り受けていたため、連絡の付けようがありませんでした。

そのため、仕事など手に付かず急ぎ帰宅する人、有志を募り、まだ動かせる汽車で子供たちの救出に向かう人、官吏、民間人問わず浮足立ったところで、玉音放送で興奮状態になった一部の朝鮮人が、南大門広場や各通りにあふれ、日本敗戦の報に「万歳」の声を上げだしたのです。

そして興奮そのまま暴徒と化しました。最初は、日ごろ尊大な態度を取っていた一部の日本人への報復や、数に任せた脅迫的な金銭の要求、商店や貨物列車からの商品、疎開荷の強奪(沿革史にも記載)程度だったそうですが、一夜明けた8月16日早朝、状況は一気に変わりました。

京城の至るところで、共産主義のシンボル「赤旗」が翻ったのです。前夜の内にトラックや牛車、馬車の荷台に乗った大勢の朝鮮人が、大きな旗らしきものを抱え京城に入って来るのを目撃した人も多く、ソビエト軍侵攻に合わせて動くように、示し合わせていたのだろうと言われていました。

朝鮮半島の大多数の人間が知らぬうちに、日本本国は外交ルートを通じてソビエト政府に対し、アメリカとの講和の仲介を頼むという、すでに戦う力がないことをばらしていました。

その状態のなかで、家族や子供たちをソビエト軍の侵攻ルートへとわざわざ送り出し、部隊を逆に京城へと移動させてしまっていたのです。

日ごろから、京城内で様子を探っていたであろうスパイからも、その動きは報告としてあったでしょう。

近々、日本がギブアップしたそのときには、京城を混乱させ、攪乱する手はずが整っていたのです。