第三章 逢魔が時:始まっていた戦い
1.気高き心教へつつ 南に聳ゆる冠獄山 たゆまぬ業を示しつつ 西に流るる大漢江学びも業も行いも あけくれはげめあの如く
2.徳を養ひ智をみがき 身を健康に保ちつつ 国につくすぞ人の道 白蓮山の名に負える にごりにしまぬ操こそ 我等がための教えなれ(鈴木志津衛校長作詞 京城元町小学校校歌)
御真影とは天皇皇后両陛下の写真であり、天皇は現人神であるとされていた当時においては、神聖にして素手ではなく、儀礼用の白手袋着用で扱われ、床に直置きすることも許されず、汚れや傷、カビにも細心の注意を要するものでした。
当時の学校教育者にとっては当然守るべきものであり、日本海を隔てて、朝鮮半島の教育に従事している教育者の覚悟を込めて、校長が当時の教育の基本理念を、明治天皇のお言葉として記した教育勅語を読み上げるような時でも、あらかじめ方位を測っておき、東京の皇居に向かい行っていたそうです。
また、学校施設の工事などで不特定多数の人間が出入りし、管理に問題が出そうな場合は、御真影、教育勅語ともに、役所に一旦返還されるほどに神経を使うものでした。
そして、これほど重要な奉安所焼失事件が起きたのは大正時代ですから、御真影は大正天皇皇后ご夫妻でした。場所は、嘉仁親王時代に陛下自らお立ちになられた京城でしたが、龍山駅から一駅先の、学校から歩いて行ける距離の京城駅(旧南大門停車場)一帯は、聖地とも言うべき場所だったのです。
大失態でした。ただでさえ健康不安がささやかれていた大正天皇を狙ったかのような、呪詛の類か、暗殺予告の可能性が考えられる事案が、軍司令部の目と鼻の先で起きたのです。
しかも、力を込めて大御心に沿っての、韓国への移行を睨んだ近代化作業をしているさなかでした。かん口令が引かれたとも言われ、この話は当時大きく扱われなくなったそうですが、周囲で多発していた朝鮮人反日活動家による日本人児童への暴行や、婦女子への性的暴行などと相俟って、京城の日本人の不安を高めていきました。